生涯
- 秦観、字は少游、一字は太虚。揚州高郵の人。少くして豪雋・慷慨で文詞に溢れ、進士に落第しつつも兵書を好み、徐州で蘇軾に会って「黄楼賦」を作り軾に「屈原・宋玉の才あり」と評された。王安石にもその詩を紹介され「清新にして鮑照・謝霊運に似る」と評された。軾に勧められ挙業に励み、定海主簿・蔡州教授を経て、元祐初、軾の推薦で太学博士・祕書省書籍校正、正字に転じ国史院編修官を兼ねた。
- 紹聖初、党籍により通判杭州に出て、御史劉拯の弾劾(実録の増損)で監処州酒税に貶され、さらに謁告(休暇届)に仏書を写した罪を着せられ削秩・徙郴州・編管横州・雷州と次々に移された。徽宗即位後、宣徳郎に復し帰る途中、藤州で客と語らい夢中に詠んだ長短句を語ったのち水を求めて笑ったまま没した、享年53。自ら挽詞を作っていたといい、その哀しい詞は読む者を悲しませた。文集40巻。議論に長じ文は麗しく思索は深く、軾は訃報に「少游は不幸にも道路で死んだ、哀しいことよ、二度とこの人物はいまい」と嘆いたという。弟の覿(字は少章)・覯(字は少儀)もともに文才があった。