宋史卷四百四十四 列傳第二百三 張耒

生涯

  • 張耒、字は文潜。楚州淮陰の人。幼くして頴異、13歳で文を作り17歳の「函関賦」が既に評判となった。陳州で学び蘇轍に愛され、蘇軾にも師事、軾は「汪洋沖澹、一唱三歎の声あり」と評した。弱冠で進士に及第し臨淮主簿・寿安尉・咸平県丞から太学録、范純仁の推薦で祕書省正字・著作佐郎・祕書丞・著作郎・史館検討を務め、8年間の三館勤務を義理を守って泊然と過ごし起居舎人に抜擢された。
  • 紹聖初、党籍で直龍図閣知潤州から宣州に徙り、監黄州酒税・復州を経て徽宗立で通判黄州・知兖州、太常少卿に召されるも数月で知潁州・汝州。崇寧初、再び党籍で落職・管眀道宮。潁州在任中、蘇軾の訃を聞いて喪に服し哭礼を行ったことが問題視され房州別駕・安置黄州に貶され5年後に許され陳州に居住した。
  • 容貌堂々として雄才があり、詩詞は苦渋な句を得意とした。二蘇や黄庭堅・晁補之が相次いで没した後も存命し、多くの学徒が就学を求めた。文論を著し、六経以下の諸子百家・騒人辯士の論述はすべて「理を寓する具」であり、文を学ぶ端緒は理を明らかにすることにあると説き、江河が道に順って流れ自ずと奇観となるように、無理に奇を求めれば水溜まりの蛙蛭を弄ぶ陋文になると論じた(要旨のみ)。晩年は白居易・張籍風の平淡な詩体に努めたが困窮し、太守翟汝文が公田購入を申し出たが辞退した。晩年は南嶽廟監理・崇福宮管理となり61歳で没した。建炎初、集英殿修撰を追贈された。