宋史卷四百四十三 列傳第二百二 賀鑄

生涯

  • 賀鑄、字は方回。衛州の人。孝惠皇后の一族。七尺の長身で顔色は鉄のごとく、眉目は聳え、当世の事を語る際は可否をはっきりと述べ貴顕をも遠慮なく批判したため世に「近侠」と評された。博学強記で語言に巧みで詞に長じ、いわば「李商隠・温庭筠を筆端で駆使する」と自ら語った。多くの貴人が招いたが応じるかどうかは意のままであった。
  • 宗女を娶り右選籍で太原の工作を監督した際、驕倨な貴人の子と対立し、盗んだ物品の証拠を突きつけて杖責しその不遜を戒めた逸話があり、以後侠気で対抗しようとする者は誰も鑄を軽んじなくなった。当時、米芾が奇矯さで知られ、鑄の気侠と並び称され、両者が会えば激しい弁論を交わし話題になった。
  • 元祐中、李清臣の推薦で通直郎・通判泗州、太平州倅を歴任するも、気性の激しさから美官に恵まれず、宮祠禄で呉に隠居した。蔵書1万余巻を自ら校讎し、貧しくとも人に金を貸し証文を破棄する義侠を貫いた。建中靖国の頃、黄庭堅がその「江南梅子」の句を謝朓に比した。自らの詞を「東山楽府」と名付け、程俱が序を寄せた。唐の賀知章の後裔と称し、本来は「慶」姓であったが漢安帝の父清河王の諱を避けて「賀」となった経緯から「慶湖遺老」と号した。『慶湖遺老集』20巻がある。