宋史卷四百四十三 列傳第二百二 章望之

生涯

  • 章望之、字は表民。建州浦城の人。少くして孤児となったが学問を好み志気は広放、文は弁博で議論に長じた。伯父の章得象の蔭で祕書省校書郎・監杭州茶庫となったが辞任し、賢良方正科を求めた際、得象が宰相であったため嫌疑を避けて抑えられた。時政を論じる上書(万余言)を行ったが取り上げられず、母の喪に服して哀毁が過ぎ、服喪後は江淮を放浪し困窮しても仕官を求めなかった。
  • 兄の拱之が知晉江県で守蔡襄を怒らせ贓罪で貶されると、望之は蔡襄の権勢に屈せず数年にわたり訴え続け、朝廷が再度取り調べて拱之の寃罪を晴らし旧職に復した。以後、望之自身は仕官を求めず、恩により太常太祝・大理評事となった。欧陽脩・韓絳・呉奎・劉敞・范鎮ら翰林学士が推薦し、宰相が僉書建康軍節度判官・知烏程県に用いようとしたが辞退し、光禄寺丞で致仕した。
  • 議論を好み孟子の性善説を宗とし、荀卿・楊雄・韓愈・李翺の説を批判する「救性七篇」を著した。欧陽脩が魏を正統としたのに対し「明統三篇」を著して反論、江南の李覯が『礼論』で仁義智信楽刑政をすべて礼から出るとした説を訂正する「礼論」一篇を著すなど、議論に優れた面が多かった。斉趙・湖湘・汧隴・呉会の山水を巡り、詩文数百篇を30巻に編んだ。