生涯
- 王逢、字は会之。太平州当涂の人。四世祖の居巌は唐の驍衛長史で、乱を避け官を棄てて青山に隠棲したが、楊行密が兵で迫って強いて出仕させ、湖州別駕を授けたが赴任させなかった。ある日行密の大会に姿を消し、家人も皆連れ去られたという。後に嵩山の石室に道人王居巌がいたとの噂もあったが行方は知れず、子孫に顕達した者はなかった。
- 逢は博学で文才があり講説を得意とした。少くして進士に不及第で郷を離れ、蘇州で数百人の門生を教授。晩年に及第し南雄州軍事判官、国子監直講兼隴西郡王宅教授。李瑋が師事し、岐国公主が降嫁した際、瑋が逢の昇進を求めたが逢は辞退した。太常博士・通判徐州で没した。
- 人柄は楽易で友を篤く重んじ、胡瑗と最も親しかった。著書を好み『易伝』十巻、『乾徳指説』一巻、『復書』七巻がある。妻の陳氏も賢行があったが子はなかった。
孫唐卿――黄庠・楊寘
- 孫唐卿、字は希元。青州の人。少くして学行があり、17歳で韓琦を訪ねてその器量を認められた。黄庠・楊寘とともに景祐年間以来、進士首席を争う名声を得た。及第後、通判陝州として吏事に精通、母が再嫁先で没した際に父が合葬を拒んだのに対し、娘がその母を盗んで合葬した事件を「孝を知って法を知らぬのみ」として釈放した。父の喪に哀毀し血を吐いて没し、朝廷は家に賻を賜った。
- 黄庠、字は長善。洪州分寧の人。博学強記で超敏、京師で国子監・開封府・礼部いずれも首席となったが、崇政殿の試を病で受けられず、内侍が邸に赴いて薬を賜った。程文(試験答案)は天下に伝誦され、近世の布衣にも稀な評判であったが、江南に帰って5年で病没した。
- 楊寘、字は審賢。楊察の弟。慶暦二年に進士挙、国子監・礼部いずれも第一、崇政殿の試でも帝が名を見て喜び「楊寘なり」と述べ第一に擢し、将作監丞・通判潁州を授かったが、赴任前に母の喪で病により没した。特詔で家に賻恤があった。生前、友人が寘を「龍首山人」とする夢を見、寘自らも「四度の首席は多すぎ、山人には禄位の縁がない」と語っていたが、その通りとなった。