生涯
- 郭忠恕、字は恕先。河南洛陽の人。7歳で書を誦し文を作り童子挙に及第、篆籕に特に巧みであった。20歳前後、後漢の湘陰公に召されたが辞去した。周の広順中に宗正丞兼国子書学博士、周易博士。建隆初、酔って監察御史符昭文と朝堂で争い、御史の弾奏に対し台吏を叱って奏を奪い破棄したため、乾州司戸参軍に貶され、さらに酔って従事范滌を殴打し貶所を離れた罪で靈武に配流された。
- その後仕官を求めず岐雍京洛の間を放浪、縦酒で人を分け隔てず親しみ、佳山水を見ると長逗留し、盛夏でも日中裸で汗をかかず、極寒に河の氷を割って浴するなど奇行があった。絵画に優れ、特に重層建築の描写に精妙であり、酒興が乗らないと依頼を頑として拒み怒って去ったため、得た絵は珍重された。
- 太宗即位後、その名を聞いて召し国子監主簿を授け銀帯や銭五万を賜り太学に館させ、歴代字書の刊定を命じた。放縦な性格で酒に乱れ誹謗の言を発することもあったが、太宗は才を惜しんで寛容にしていた。官物を勝手に売却した罪で死罪を減じ杖打ちのうえ登州に流されることとなり、太平興国二年、齊州臨邑まで護送された際、部送吏に「我は今死ぬ」と告げ、自ら地に穴を掘り、その中を覗き込んで没したという。後に改葬しようとした際、遺体は蝉の抜け殻のように軽かったという。校定した『古今尚書』とその釈文が世に行われた。