宋史卷四百四十二 列傳第二百一 顔太初

生涯

  • 顔太初、字は醇之。徐州彭城の人。顔子の四十七世孫。少くして博学で俊才、慷慨で義を好み、時事を諷刺する詩を多く作った。天聖中、亳州衛真令黎徳潤が吏に誣告され獄死した事件を詩で発表しその寃罪を訴え、読者を感嘆させた。
  • 文宣公孔聖祐が没して10年近く後継がなかった際、鍼医許希が仁宗の病を治した恩賞を扁鵲を祀る神応侯の廟に捧げた逸話を「許希詩」に借りて聖祐の後継問題を諷刺し、参知政事蔡斉に建言、聖祐の弟が襲封となった。范諷・石延年・劉潜らの豪放な酒飲みの風潮が若者に広まっていたことを「東州逸党詩」で批判し、孔道輔に評価された。
  • 進士に及第後、莒県尉、転運使との軋轢により罷免され、後に閬中主簿に補された。范諷が罪に問われた際、同党とされ蔡斉・道輔が太初の詩を推薦したが、これも譏刺の詞とみなされ臨晉主簿に改められた。
  • 太常博士宋武が同州の守と争って恚死し、子が守に讒言で罪を着せられ発狂死した事件で、守が権勢を誇り誰も冤罪を訴えなかったが、太初は同州に赴いて武父子を葬り、蘇舜欽がその事蹟を墓に記した。後に応天府戸曹参軍・南京国子監説書となり没した。「洙南子」と号し、鳬繹両山の間に居を構え「鳬繹処士」と号した。文集10巻、『淳曜聫英』20巻がある。子の復は嘉祐年間、郷里から都に召試され奉議郎となった。