出自と生い立ち
- 高頔、字は子竒。開封雍丘の人。後唐の清泰年間に進士に挙げられた。
- 同輩にからかわれて左僕射で致仕していた裴皥のもとへ弟子入りを志願、頔の純朴さと文才を見た裴皥は、門下生である礼部侍郎馬裔孫が知貢挙となった際に頔を推し、乙科に抜擢させた。
魏博での勤務と評判
- 魏博観察支使を経て、周の顕徳年間に符彦卿の掌書記となる。太宗が懿徳皇后を大名に迎えた際、彦卿の命で出迎えの接待にあたり、厚い信頼を得た。
- 彦卿が鳳翔に転じ、さらに洛陽に留められた後も天雄軍掌書記を務めたが、病により官を退き魏に住んだ。
子・南金の上訴と栄達
- 雍熙二年、太宗が貢士を親試した際、頔の子・南金が「父は84歳で幕僚を長く務めたが罷職後は困窮している」と上疏。太宗が李左右に問うと、宰相宋琪が頔の廉潔さと老いてなお衰えぬ品行を称え、搢紳らの敬意を集めていると答えた。
- 太宗は「これは自分がかつて大名の幕中で親しく交わった高頔の子か」と述べ、その恭謹な人柄を惜しみ、南金を及第させ、頔を左補闕に任じて致仕させ、銭十万を賜った。
- 頔は清節と学問に努め、千余巻の書を自ら書写した。彦卿の厚遇にも受け取り分に応じてしか受納しなかった。彦卿が失脚した後、旧来の幕僚は皆恥じて魏に近づかなくなったが、頔だけは清廉に法を守り、魏の人々に30年愛された。老馬を大事に飼い、老僕を長く仕えさせた人柄から「長者」と称された。次子・鼎は進士に及第し殿中丞に至った。