宋史卷四百三十九 列傳第一百九十八 和峴

和峴

  • 字は晦仁、開封浚儀の人。父・和凝は晋の宰相太子太傅魯国公。峴生誕の年、父・凝が翰林入りし金紫を加えられ知貢挙となる慶事が重なったため「三美」と命名された。7歳で門蔭により左千牛備身。漢乾祐初、朝散階を加えられ、16歳で著作郎。丁父憂の後、太常丞。建隆初、太常博士として南郊従祀で乗輿の進退を優雅に補佐し太祖に評価された。
  • 刑部員外郎兼博士、判太常寺。乾徳元年、南郊祭祀での礼制論争で、昊天上帝祭祀の頻度を減らすべきと提言した。二年、孝明・孝恵二后の神主祔別廟に関する礼制論を上げ、同廟同殿別室とし孝明皇后を上室、孝恵皇后を次室とすべきと議した。
  • 夔州通判として、望燎位・爟火の制定、宗廟の宮懸・鼓吹・登歌・郊廟奠献の楽制、迴仗時の采茨の曲・御楼時の隆安の曲等の楽章整備、八佾の舞(玄徳升聞・天下大定の二舞)を提言し、すべて採用された。
  • 王朴・竇儀没後、律呂に通じる者が途絶えていたところ、太祖の命で雅楽の音律を調整し(義手笛の音律研究、「拱辰管」の命名)、評価された。司勲員外郎、泗州知事判吏部南曹、夔・晋二州通判を経て開宝九年、江南平定後の採訪使となった。太宗即位後、主客郎中。
  • 太平興国二年、知兗州、京東転運使として職権を利用した私貨交易の不正が発覚し(判官鄭同度、彰信軍節度劉遇の告発による)除籍配流となった。六年、太常丞分司西京に復官。端拱初、著書『奉常集』五巻『祕閣集』二十巻『注釈武成王廟賛』五巻を上呈し評価され主客郎中判太常寺兼礼儀院事となった。享年56で卒した。
  • 弟・和㠓: 和凝の四子。幼時より詩才を示し父に将来を嘱望された。太平興国八年進士、崇仁県知事、江南転運楊緝の推挙で南昌県知事、刑部詳覆官、光禄寺丞を歴任した。父の遺著『疑獄集』を増補して三巻とし献上し、自著の文賦五十軸で太子中允に抜擢された。
  • 御前登第第三牓碑の撰述で直史館、七牓題名記や父の『古今孝悌集』の補注も献上し直集賢院。「観灯賦」で右正言、貢士考校の歌で太宗に評価され知制誥となった(宰相・李昉は「宰相の子として学に励み文章に優れる」と評した)。水部員外郎知理検院、王旦と共に判吏部銓。至道元年、風眩で急逝、享年45。太宗が深く悼み、子の珙(10歳で大理評事)・璬(太廟斎郎)を優遇した。
  • 評: 容儀を整えることを好み、五更から冠帯を整えるほどであった。幼少より文才はあったが警抜さに欠け、対句技法にこだわり典誥の体を失うこともあった。太宗は「眸子が澄まず胸中正しからず、近侍には不可」として翰林起用を見送った。和凝のもう一人の子とされる人物も三班奉職として登用された。