宋史卷四百三十九 列傳第一百九十八 鄭起

鄭起

  • 字は孟隆、出自は不詳。若くして京洛に遊び、襄州双泉寺の僧が黄金を作れるとの噂を信じて一時出家したが偽りと知り還俗し、進士に及第した。詩賦に優れ周広順初、尉氏主簿。宰相范質への上書により右拾遺直史館。恭帝初、殿中侍御史。
  • 乾徳初、泗州市征を管掌した。刺史張延範との軋轢(延範を「太保」と呼ばれる官吏と揶揄する発言)で恨みを買い、飲酒による職務怠慢を密奏された。顕徳末、太祖が禁軍を掌握し人望を集めていた頃にその動静を宰相范質に上書した経緯や、太祖と路上で行き会った際の非礼な振る舞いも重なり、河西令に左遷された。蜀平定後の遠官転任を嫌い自ら足を焼いて病を装ったところ、本当に病を得て死去した。
  • 評: 才を恃み傲慢で他者を誹謗することが多く、晩年まで改まらなかったとされる。
  • 附伝・郭昱: 古文を好み偏狭で奇矯な人柄であった。周顕徳中進士、常選への出仕を恥じ宰相趙普に上書して自らを巣父・許由に比したため矯激と評され長く任用されなかった。趙普が河陽に鎮した際、薛居正に上書して普を誹謗し、居正が奏上して襄州観察推官となった。潘美の襄陽鎮守・金陵討伐に随軍中、酒に酔い夜中に軍中で叫んで潘美に送還された。後に官銭横領で除名され、雍熙中に卒した。
  • 附伝・馬応: 文芸に長け道士の服を好んで着用した。開宝初、元結の「中興頌」に倣い「勃興頌」を作って太祖の荊湖平定の功を頌え、永州に刻石しようとしたが県令に許されなかった。太平興国初に及第したが事に坐して除名され、後に詩を通じて再び大理評事となったが間もなく卒した。
  • 他に頴贄・董淳・劉従義(文章)、張翼・譚用之(詩)、張之翰(牋啓)が文才で知られた。贄は太子中允、淳は工部員外郎直史館で孟昶紀事の撰述を命じられ、従義は蔵書家で『遺風集』二十巻を編纂した。