趙隣幾
- 字は亜之、鄆州湏城の人、代々農家であった。少くして学を好み「禹別九州賦」万余言を作り評判となった。周顕徳二年進士、秘書省校書郎、許州・宋州従事を歴任した。
- 太平興国初、左賛善大夫直史館、宗正丞。太平興国四年、郭贄・宋白が中書舎人を拝命した際に共に推薦を受け、頌を献上して左補闕知制誥となった。享年59で卒、中使が葬儀を護送した。
- 人柄・文才: 体貎は弱々しかったが文章は浩博で、徐庾(徐陵・庾信)や王楊盧駱(初唐四傑)の体を慕った。構思には端座して千言を成すほど精密であった。知制誥では文才は評価されたが繁務には対応しきれなかった。唐武宗以来の実録の追補を志し寝食を忘れて資料収集したが未完のまま病没し、それを最大の遺恨とした。
- 淳化中、参知政事蘇易簡の言及を機に、太宗が直史館銭熙を遣わして遺書を回収させ、追補分の会昌以来日暦二十六巻、文集三十四巻、他の著作(『鯫子』一巻『六帝年略』一巻『史氏懋官志』五巻等五十余巻、すべて塗竄の草稿)が発見され、家に銭十万が下賜された。
- 附伝・何承裕: 晋天福末の進士。清才があり詩を好み嗜酒放逸であった。中都主簿を経て著作佐郎直史館、盩厔・咸陽県令として牛に乗り酔ったまま府に赴く奇行があったが治績は良好で、訴訟を戯判で解決する等の逸話が伝わる。開宝三年、監察御史、侍御史、忠・万・商三州知事を歴任し太平興国中に卒した。