朱昂
- 字は挙之、その先祖は京兆の人で渼陂に世家した。唐末、南陽に移り、後梁簒奪後、父・葆光は舊臣顔蕘・李濤らと共に南渡し潭州に寓居、正旦ごとに南嶽祠前で北望し慟哭すること二十年に及んだ。李濤が北帰した後も、葆光は衡山の風光を愛して留まった。
- 幼くして熊若谷・鄧洵美と共学し、朱遵度(「朱万巻」と称された博識家)に「小万巻」と呼ばれた。異人の予言(中原統一の新君の下で仕官すべき)を受け北游江淮した。周世宗の南征時、韓令坤に治乱の方略を説き、権知揚州揚子県として戦乱後の流民七千余家を招撫し、令坤の推挙で本県令となった。
- 宋初、衡州録事参軍。陶潜「閑情賦」に感じてこれを敷衍した賦を作った。清濁の気を禀けた自身の情を語り、姫孔(周公・孔子)の道に追随することを願う一方、俗世の栄達を離れて心を虚静に遊ばせる意を述べ、「願わくは何々となりて」の形で首・弁・足・舄・服・袂・目・鑑・地・簟・觴・醴・握・剣・橐・矢・体・裘・軒・篁になぞらえて清廉・忠誠・堅固な節操を貫く志を詠んだものである。
- 知州李昉に文才を評価され宜城令となった。開宝中、太子洗馬知蓬州、広安軍に転じ、渠州の妖賊李仙(衆一万人)を計略で捕らえ、周辺の渝・合・渝・涪四州の妖言集団も自然消滅させ蜀民を安んじた。宰相薛居正に評価され殿中丞知泗州。
- 隋の運河開削を批判する「隋河辞」を作った。濬決による民への負担、遊観による財の浪費を隋滅亡の一因とし、民を害さなければ後世の利益もなかったであろうと論じた。淮水の漂流死体三千を埋葬した。戍卒の反乱では首謀者のみ誅し連座者は赦した。江南転運副使を経て太平興国二年、知鄂州加殿中侍御史、峡路転運副使、庫部員外郎、転運使。端拱二年、直祕閣賜金紫。知復州、水部郎中を経て致仕を願うも許されず、再度直祕閣、越王府記室参軍となった。
- 真宗即位後、司封郎中知制誥判史館として三館祕閣書籍の編次を命じられた。咸平二年、翰林学士。致仕を願い工部侍郎致仕となった。真宗自ら見送り、子の正辞を知公安県として侍養させ、致仕官の通例を破って延見・厚い恩礼を与え、玉津園での餞別の宴に両制三館が参列して賦詩する等、異例の厚遇を受けた。
- 致仕後は「退叟」と号し、俸禄の三分の一で奇書を購入した。著書『資理論』三巻を上呈し史館に収蔵された。弟の朱協(純謹の人柄、主客郎中雍王府翊善)と共に長寿を保ち「漢の二疏」に比された。「知止」「幽棲」の二亭を建て、釈氏の書を好んだ。景徳四年、享年83で卒した。門人が「正裕先生」と諡した。
- 評: 学を好み純厚で節操を保ち栄利に淡泊であった。三館学士(洗馬)として15年、内署で公事以外に両府に出入りしなかった。文集三十巻。子の正彝・正辞は共に進士及第、正基は虞部員外郎。