梁周翰
- 字は元褒、鄭州管城の人。父・彦温は延州馬歩軍都校。10歳で作文をよくし、周広順二年進士、虞城主簿を辞退して開封府戸曹参軍、秘書郎直史館となった。
- 高錫の武成王廟配享(七十二賢)を巡る議論に対し、王僧辨を不令終を理由に除外する案に反論する上言を行い、周公・孔子ですら完全無欠ではなかったとし、樂毅・廉頗・韓信・彭越・白起・伍員・李左車・孫臏・穰苴・呉起・周勃・陳平・周亜夫・鄧艾・李広・竇嬰・鄧禹・馬援・諸葛亮・王猛・関羽・張飛ら歴代名将にも瑕疵はあるとして、功業の大きさを重視すべきと論じた。
- 乾徳中、擬制二十編を献上し右拾遺となった。大内五鳳楼賦を作り評判となった。柳開・范杲らと「高梁柳范」と並称され、古文復興を担った。太祖が石守信を通じて周翰の起用(掌誥)を図ったが、周翰が謝表を出したことで太祖の不興を買い沙汰止みとなった。
- 通判綿・眉二州、眉州での杖刑致死事件で降格され太子左賛善大夫。開宝三年、右拾遺監綾錦院、左補闕兼知大理正事。郊祀の際の上疏で西蜀・淮南・荊潭広桂三方の租税減免を提言した。
- 錦工への杖刑過剰事件で太祖に叱責され左司農寺丞に降格された。太子中允、太平興国中、知蘇州で伶官の妓百人を侍らせるなど職務怠慢が問題となり分司西京に左遷された。楚州団練副使を経て、雍熙中、李昉の推薦で右補闕、江淮提点茶塩。史才を評価され史館修撰兼帯、起居舎人となった。
- 端拱五年、左右史の職再置に伴い李宗諤と分担し、起居郎として崇徳・長春殿での皇帝発言や侍臣の議論を記録する制度を上言し採用された(起居注制度の始まり)。処罰される頻度は高かったが、判館楊徽之らの弁護で罰金百斤に留まった。
- 趙安易の西川大銭鋳造策に対し、貨幣流通の理論に基づく代案(鉄銭一枚を一銭として使用する、榷塩院を設置する)を上言した。至道中、工部郎中。真宗が儲宮時代に周翰の文章を集めさせた縁で即位後、駕部郎中知制誥、判史館昭文館となった。咸平三年、翰林学士として趙安易と共に属籍を編纂した(唐末の混乱で失われた譜系の再構築)。真宗の澶淵親征に扈従し、給事中。景徳中、宋白と共に学士職を罷免され工部侍郎。享年81で卒した。
- 評: 疎放・性急で職務に失敗が多く、晩年は才思が衰えたとされる。文集五十巻、『続因話録』がある。