宋史卷四百三十八 列傳第一百九十七 王應麟

王應麟

  • 字は伯厚、慶元府の人。9歳で六経に通じ、淳祐元年進士。王埜に師事した。西安主簿として、若年を侮り賦税を怠る民を法により正した。
  • 平江百万東倉監督、浙西提挙常平茶塩司主管帳司を経て揚州教授。博学宏詞科を志して閉門修学し、宝祐四年に及第した(弟・応鳳と同日生まれで、開慶元年にも同科に及第した)。
  • 三省枢密院架閣文字主管、国子録、武学博士として上疏し、治世の困難、辺境の危機、人材・民力の疲弊、士気の鼓舞、綱紀の明示等を説いた。
  • 帝の集英殿策士の覆考で、当初七位の答案を首位に推薦した(後にこれが文天祥の答案と判明した)。三省樞密院架閣文字主管を経て太常寺主簿、丁大全に取り込まれず面対で辺防の危機を直言した。丁大全失脚後、通判台州、太常博士、秘書郎として、彗星出現時の応詔で執政・侍従・台諫の罪と公田法の弊害を論じた。
  • 著作佐郎として、度宗即位後に百官表の急な追加起草を見事にこなし丞相を驚かせた。礼部郎官兼直学士院、崇政殿説書、著作郎、軍器少監を歴任した。雪害時の対応で唐の李嶠らの応制詩を引きつつ民生への配慮を進言した。将作監、侍立修注官、権直学士院、秘書少監兼侍講として市舶(海外貿易)を論じたが用いられなかった。
  • 賈似道が平章事となった際、宰相辞任を巡る議論で似道の怒りを買い疎まれた。冬雷の異変を機に命令の混乱・姦邪の進出を批判し、似道の逐斥意図を察知して祕閣脩撰主管崇禧観に転じた。知徽州として父の遺徳もあり豪右を抑え租賦を軽減し、民に喜ばれた。
  • 秘書監権中書舎人、国史編修実録検討兼侍講、起居郎兼権吏部侍郎として長江・襄樊の防衛の重要性を説いたが用いられなかった。母の喪で退いたが、賈似道の敗戦後、中書舎人兼直学士院として十事の急務(征討・政刑・廉恥・下情・将材・軍実・実材・牧守・海道の整備)を上奏し、勤王軍への厚賞を提言した。
  • 礼部侍郎兼中書舎人として日食時の応詔で天戒五事と防禦十策を上奏したが用いられなかった。尚書兼給事中として左丞相留夢炎の人事(徐囊・黄万石らの起用)に反対し繳奏を繰り返したが聞かれず、致仕を決意した。翰林学士への召命も辞退して帰郷し、その後二十年生きて没した。
  • 著書に『深寧集』百巻『玉堂類藁』二十三巻『掖垣類藁』二十二巻『詩考』五巻『詩地理考』五巻『漢芸文志考証』十巻『通鑑地理考』百巻『通鑑地理通釈』十六巻『通鑑答問』四巻『困学紀聞』二十巻『蒙訓』七十巻『集解践阼篇』『補注急就篇』六巻『補注王会篇』『小学紺珠』十巻『玉海』二百巻『詞学指南』四巻『詞学題苑』四十巻『筆海』四十巻『姓氏急就篇』六巻『漢制考』四巻『六経天文編』六巻『小学諷詠』四巻がある。