宋史卷四百三十六 列傳第一百九十五 陳亮

陳亮

  • 字は同父、婺州永康の人。才気煥発で兵学・時務論に長け、『酌古論』を著した。郡守周葵に才を認められ交遊し、葵は執政となってからも国士として遇した。
  • 隆興の和議に反対し、婺州で解頭に薦挙されて「中興五論」を上奏したが用いられず、以後十年間郷里で学問著述に専念した。
  • 淳熙五年(孝宗即位十七年目)、上書し、中国は天地の正気・天命・人心の帰する所であるとし、南方に偏在することを恒久としてはならないと論じた。二聖北狩の恥を晴らすべきなのに、秦檜の和議以来、天下の気概が衰えたと批判し、財力・兵力を蓄えるという通和論は「上下の苟安と姦臣の私利を成すもの」と痛烈に批判した。荊襄・巴蜀の地勢を用いた復興策を提言し、銭塘(臨安)に都したままでは中原回復は不可能であるとして、建業(金陵)への遷都、武昌への行宮設置、荊襄経営を提言した。丙午丁未(靖康の変)から六十年周期の天運を説き、今こそ北伐の好機であると主張した。
  • 孝宗は感動し官職を与えようとしたが、陳亮は「社稷のため数百年の基を開こうとしているのに、なぜ一官を求めようか」と笑って固辞し帰郷した。
  • 郷里で狂言のかどで刑部侍郎何澹に讒言され投獄・拷問を受けたが、孝宗は「秀才の酔後の妄言に罪なし」として赦免した。その後も家僮の殺人事件に連座して投獄されたが、丞相・王淮や辛棄疾、羅点の助力で死を免れた。
  • 学問は孟子以後、王通を推重し、義理の精微を究め古今の同異を弁ずることを旨とした。朱熹・呂祖謙らと並び称され、自ら「一日の長がある」と自負した。
  • 高宗崩御に際し光宗が判臨安府として孝宗の知遇に感じ、金陵に赴いて再び上疏し、非常の人あって初めて非常の功を建てられると説いた。秦檜の和議二十年の害と孝宗の削平の志二十年を対比し、高宗の対金和平路線を批判し、皇太子(光宗)を撫軍大将軍として建業に駐屯させ北伐準備の中心とすることを提言した。
  • 光宗禅位を巡り宮廷が動揺した時期、狂言を疑われ再び紛争に巻き込まれたが、少卿鄭汝諧の弁護で免れた。
  • 光宗の策問に対し「君道・師道」論で答え、当初第三位とされていたが光宗自ら第一に抜擢した(孝宗・寧宗も喜んだ)。建康府判官庁公事に任命されたが赴任前に急死した。
  • 弟の陳充との別離の逸話が伝わる(互いに命服を得て死後に父祖に見えることを願った)。人柄は情に厚く、貧しい者への援助を惜しまなかった。没後、葉適の請いにより一子に官が与えられ、端平初年に諡「文毅」。