宋史卷四百三十六 列傳第一百九十五 鄭樵

鄭樵

  • 字は漁仲、興化軍莆田の人。著述を好み文章を軽んじ、劉向・楊雄に劣らぬと自負した。夾漈山に隠棲して人事を絶ち、名山大川を巡って書を捜求した。趙鼎・張浚らに重んじられた。経旨・礼楽・文字・天文・地理・虫魚草木・方書の学に通じ、それぞれ論辨を著した。
  • 紹興十九年、著書を献上し秘府に収蔵された。侍講王綸・賀允中の推薦で高宗に召見され、班固以来の史書の非を論じた。右迪功郎礼兵部架閣に任じられたが御史葉義問の弾劾で監潭州南嶽廟に転じ、給札を得て『通志』の著述を進めた。
  • 枢密院編修官、検詳諸房文字を兼摂した。金の正隆官制の研究のため秘書省で書籍を繙閲することを求めたが、また弾劾により中止された。金軍侵入の際、歳星の位置から金主の自滅を予言し的中させた。高宗の建康行幸に際し『通志』を進呈したが間もなく病没、享年59。学者は夾漈先生と称した。
  • 評: 考証・分類学に優れたが、著書は多いものの要を得ないものも多かったとされる。清貧を保ち施与を好んだが、仕進への執着を批判する識者もあった。
  • 同郡の林霆(字は時隠)は政和年間の進士で、博学にして象数に通じ、鄭樵と金石の交わりを結んだ。林光朝が師事した。書数千巻を自ら校讎し、紹興年間、勅令所刪定官として秦檜の和議に反対して官を辞し、時人に高く評価された。