胡安國
- 字は康侯、建寧崇安の人。太学に入り程頤の友・朱長文と潁川の靳裁之に師事した。紹聖四年の進士第で、当初は答案が元祐を批判しないとして宰執に嫌われ何昌言が一位、方天若が二位、章惇の子を三位にしようとしたが、哲宗自ら再読して安国を三位に抜擢した。
- 太学博士、湖南学事提挙。永州の布衣・王繪、鄧璋を挙げたが二人は老いて赴任せず、安国は零陵簿の職を彼らに与えようとしたところ、范純仁の客・鄒浩の口利きと疑われ弾劾された。蔡京はこれを喜び湖南・湖北で二度取り調べさせたが証拠は得られず、安国は除名された(後に簿は別の罪で処刑され、安国は復官した)。
- 政和元年、成都学事提挙。丁内艱(父の喪)で辞し、以後は仕えず隠棲したが、宣和末に李彌大・吳敏・譚世勣の推薦で屯田郎に任じられるも辞退した。靖康元年、太常少卿・起居郎への任命も辞退したが、欽宗の強い召しに応じて上奏し、学問と正心の重要性を説き、大臣に施政案を具体的に提示させ台諫と協議する仕組みを提案した。
- 門下侍郎耿南仲と対立した(南仲は安国を朋党とみなし讒言した)。中書舎人となったが、南仲一派の妨害を受けつつ職を続け、李綱・許景衡・晁説之の排斥に反対する上奏を行った。
- 葉夢得の左遷に反対し、蔡京派だった者を一律排斥することの弊害を指摘した。何㮚による「四道総管制」構想に反対し、二十三路の帥府に既存の重臣を都総管とする穏健策を提案した。趙野の北道総管起用にも反対したが(結局趙野は起用され、その後金軍侵入で殺害された)、西道の王襄が兵を擁して北上しなかったことも安国の予見どおりであった。
- 李綱罷免を巡る詞頭作成問題で劉珏を弁護し、吏部侍郎馮澥の弾劾に反論した。海門の任地が湿地で持病の足疾に障るとして詔が出たが、結局は右文殿脩撰・知通州に転任した。
- 靖康末、金軍が都城に迫った際、子の胡寅が郎官として在城しており、安国は憂慮しつつも忠義を語った。欽宗の召しに応じられぬまま北宋は滅亡した。
- 高宗即位後、給事中に召されたが黄潜善の妨害で罷免された。紹興元年、中書舎人兼侍講となり、時政に関する上奏二十一篇(定計・建都・設険・制国・恤民・立政・覈実・尚志・正心・養気・宏度・寛隠の各論)を献上した。建都は建康を主張し、設険は漢沔・淮泗・安陸を防衛の要とし、立志は中原恢復を志すべきこと、正心は正臣を側に置くこと、養気は君主の徳の陶冶を説いた。
- 侍読兼春秋専講となり、朱勝非の江淮荊浙都督起用に反対した(苗劉の変での対応を理由に不適任とした)。呂頤浩との軋轢で永州知事等を転々とし、五年に徽猷閣待制知永州を辞して江州太平観提挙となり『春秋伝』を完成させた。高宗はこれを高く評価し提挙万寿観兼侍読に任じたが、陳公輔の程頤学批判に対し安国は程頤・張載らの学の正統性を弁護する上奏を行った。公輔・中丞周祕・侍御史石公揆らに攻撃され知永州を辞し提挙太平観、進んで宝文閣直学士となった。享年65で卒し、諡は文定。
- 人物評: 聖人を標的とし、時艱を憂い、罪を得て退けられても憂国の心は篤かった。四十年の在官期間中、実際の在職は六年に満たなかった。朱震が召された際に安国は「出処の判断は自ら決すべきもの」と説いた。尹焞と並び渡江後の儒者の出処の模範とされ、游酢・謝良佐・楊時ら程門の高弟と交わった。王安石が春秋を学官から排したことに憤り、二十余年『春秋伝』の著述に専心した。著書に文集十五巻、『資治通鑑挙要補遺』百巻。
胡寅(胡安国の甥、実子として育てられた)
- 生誕時、多子を理由に養育を拒まれかけたが、安国の妻の夢(大魚が盆水に躍る)を機に養子となった。幼少期は乱暴だったが、書物を与えられて矯正された。
- 宣和年間の進士甲科。靖康初、御史中丞何㮚の推薦で秘書省校書郎となり楊時に学んだ。金軍による開封陥落・張邦昌擁立に反対し議に加わらなかったため、離籍を理由に降格された。建炎三年、張浚の推薦で駕部郎官、のち起居郎。
- 高宗の南遷(金陵行幸等)に対し痛烈な上奏を行い、黄潜善・汪伯彦を批判、二聖を迎える策を怠り南方に逃避したことを非難し、中興のためには武備と復讐の意志が必要と説いた。
- この上奏は呂頤浩の怒りを買い直龍図閣・江州太平観に左遷された。紹興四年、起居郎に召還され中書舎人。金への遣使(雲中への使節派遣)に強く反対する上奏を行い「復讐の議を用い講和の政を用いず」と論じたが、張浚が遣使を推進したため意見が対立し、地方官への転出を求めた。
- 詞臣として詔勅起草を担当し、宣仁太后の誣謗を正す詔を撰した。徽猷閣待制知邵州等を歴任した。徽宗の妃・寧徳皇后の訃報に際し「服喪三年」を主張する上奏を行った。禮部侍郎兼侍講。
- 秦檜執政下、致仕して衡州に帰ったが、李光への書簡で朝政を諷刺したとして落職、右正言章復の弾劾(不孝・通敵の罪)で果州団練副使・新州安置に流された。秦檜死後に赦免され、紹興二十一年、享年59で卒した。
- 人物: 志節豪邁。張邦昌が娘を娶らせようとしたが拒否した。当初秦檜の大節を評価していたが、擅権後は絶交した。著書に『読史管見』数十万言、『論語詳説』、文集三十巻。
胡宏
- 字は仁仲。楊時・侯仲良に師事し父の学を継承、衡山下で二十余年学問に専念した。張栻が師事した。紹興年間の上奏で「仁」を治天下の本とし、良心を保つことの重要性を説き、敵国(金)への対処よりも自らの良心の喪失を憂うべきと論じた。舜と瞽叟の故事、徽宗・欽宗の苦難を引き、復讐の志を堅持すべきことを説き、王安石の変法を批判し三綱の重要性を論じた。
- 国子司業高閌が太学への皇帝行幸を求める上表を出した際、胡宏は楚懐王の故事等を引いてこれを痛烈に批判する書を送った。
- 秦檜が兄胡寅を通じ懐柔しようとしたが応じなかった。秦檜死後に召されたが病を理由に辞し、家で没した。著書『知言』(張栻は「言簡にして義精、道学の要」と評した)、詩文五巻、『皇王大紀』八十巻。
胡寕
- 字は和仲。蔭補で任官し、秦檜執政下で館職試験に及第、勅令所刪定官となった。秦熺が枢密院事となった際、世評を問われ「秦丞相は蔡京の轍は踏まないだろう」と答えた。太常丞・祠部郎官。父兄の縁で登用されたが、寅が秦檜と対立してからは疎まれ、夔路安撫司参議官・知澧州(赴任せず)に転出した。
- 安国の『春秋伝』の編纂・検討は実務上多くを寕が担い、また『春秋通旨』を著してその書を補完した。