宋史卷四百三十五 列傳第一百九十四 朱震

朱震

  • 字は子発、荊門軍の人。政和年間の進士。胡安国に見出され高宗に推挙されたが、召しに病と称して応じなかった。江西制置使趙鼎が参知政事となった際、朱震の学識の深さを高宗に伝え、朱震は召された。
  • 高宗の易・春秋についての問いに具さに対応し、祠部員外郎兼川陝荊襄都督府詳議官に任じられた。荊襄地方の膏腴の地七百余里の開発について、良将を選んで屯田・辺防にあたらせ、農耕と防衛を両立させ茶塩の専売収入で財政を賄い、機を見て北伐に及ぶという策を献じた。
  • 秘書少監兼侍経筵、起居郎を経て建国公の傅・賛読となる。中書舎人兼翊善に進み、将作監丞郭千里の民田侵奪の不正を弾劾し任用を止めさせた。翰林学士に進んだ。虔州の民が盗賊化した際、良太守を選び派遣する策(貪官を罷免し仁恵の官を優遇する)を献じ、採用された。
  • 徽宗未祔廟の時期、太常少卿呉表臣が明堂の祭を行おうとしたのに対し、朱震は喪中の郊祀は不可とする礼論(春秋の故事を引く)を上奏したが、最終的には御史趙渙・礼部侍郎陳公輔らの議により明堂の祭は行われた。
  • 病により祠禄を求め、礼部貢挙を知るも間もなく病没した。
  • 学問は易学に深く『漢上易解』を著した。陳搏に始まる易学の伝授系譜(种放→穆脩→李之才→邵雍、および种放→李溉→許堅→范諤昌→劉牧、穆脩→周惇頤→程顥・程頤、張載)を整理し、程頤の易伝を宗としつつ邵雍・張載の説を調和させることを目指した。