楊㤗之
- 字は叔正、眉州青神の人。少にして学に刻志し10年榻を設けなかった。慶元元年類試、瀘州尉、什邡令、綿州学教授、羅江丞、制置司の幕府に招かれた。呉獵が蜀の情勢を諭す際、㤗之は「呉曦が乱を為すのに士大夫が従わなければ必ず敢行できず、既に乱れても士大夫が抗すれば憚る所ができる」と書を送った。知厳道県、通判嘉定。白厓砦の将王壎が蛮を利店に引き入れ叛乱を起こした事件で、刑獄使者が壎を法に処すとともに他の連座者にも死罪を及ぼそうとしたのを㤗之は夷都の実情を調べ釈放を求めたが聞かれず、官を去った。宣撫使安丙が「蜀中の名儒、楊虞仲の子で、逆臣の変に際し節を全うした」と朝廷に推薦した。
- 都堂審察に召されたが親の老いを理由に辞し、知広安軍(未赴任)、父の喪、知富順監、去官の際に俸禄数千緡のうち千緡を義荘に充てた。知晋州、安居・安岳二県の被害の甚だしさを安丙に訴え賦税を免除させた。行在への召しを固辞、知果州では零細な貨幣による民の疲弊を一年の経費調整で救い、その方式が定式として尚書省に採用され、民が「前張後楊、恵我無疆」と歌った(張は前任の張義を指す)。
- 理宗即位、召対で法天行健の直言を説き、直言を求めながら直言を罪すれば言路が塞がると諌め、帝はその対を奇として工部郎中に任じた。以後言事者が相継ぎ、㤗之が先鞭をつけたとされる。軍器少監・大理少卿、紹定元年入対で風雨・水潦の異変や巴陵(済王)の追贈が既に行われた封諡・録用の子との整合性から今行うべきと論じた。直宝謨閣・知重慶府に任じられ、丞相への別離の書で人材登用の要諦(自私の心を去り人を容れる度量を持ち取捨の理を審らかにすること)を説いた後に卒した。著述に『克斎文集』『論語解』『老子辞』『春秋列国事目』『公羊穀梁類』『詩類』『詩名物編』『論孟類』『東漢三国志南北史唐五代史類』『歴代通鑑本朝長編類』『東漢名物編』『詩事類』『大易要言』『雑著』計297巻がある。