宋史卷四百三十四 列傳第一百九十三 蔡幼学

出自と孝宗への策論

  • 字は行之、温州瑞安の人。18歳で礼部試第1。当時太学で文名のあった陳傅良を超える文才と評された。孝宗が策士の際、首列に置こうとしたが、外戚張説が権勢を持ち宰相虞允文・梁克家がこれに阿附する状況で、幼学は対策で「陛下の資質と志は聡明高遠だが原則が立たず、即位の初めの太平の期待に反し風俗・紀綱・人心・吏兵財民のいずれも乱れ収拾しがたい」と述べ、虞允文・梁克家を名指しせず「或以虚誉惑聴、或以緘黙容身」と批判、さらに漢武帝以来の外戚専権の禍(公孫弘・衛青、許史・王氏、丁傅の例)を引いて張説の兵権関与を「公孫弘以上の罪」と断じた。帝は不快、允文はさらに幼学を憎み、結果は下第となり教授広徳軍、父の喪、潭州司理参軍。

光宗・寧宗期の直言

  • 執政施師点の推薦で孝宗に召され「壮なり、行うべし」と評され、勅令所刪定官として恥雪境土回復の急務を説いた。母の喪。光宗立、太学録から武学博士、太学、秘書省正字兼実録院検討官、校書郎。光宗が疾で重華宮に朝せぬことを憂い、大臣・臺諫が請対しても拂衣して退く光宗の様子や、市中の謗誹の様子を封事に記して復父子の歓を求めた。
  • 寧宗即位、事親・任賢・寛民・講学の四事、とりわけ講学を先とすべきと上奏し、熙寧以来増え続けた諸税(免役銭・常平積剰銭・無額上供銭・大礼進奉銀絹・贍学糴本銭・経制銭・和買折帛銭・総制銭・月椿大軍銭等)を列挙して民困の甚だしさを訴えた。帝は称善したが韓侂胄が偽学を排斥する中、幼学は外補を求め提挙福建常平となり、除授が中から出て諫省が理由なく罷黜される風潮を批判し侂胄の不興を買った。荒政を講じ朱熹に諮問したが劉徳秀の弾劾で8年間祠官、知黄州、提点福建路刑獄(未赴任)を経た。

晩年

  • 侂胄が名士登用を図った際、吏部員外郎として召され、高宗の減税の故事を輔臣に説き、両浙丁銭免除を高宗に比肩すると評価しつつ、用兵下の江湖以南の調発の弊を憂うよう帝に求めた。国子司業・宗正少卿を経て権中書舎人、侂胄誅殺後の残党一掃で弾繳・竄黜が多く尽職と称された。中書舎人兼侍講、閤門の宣賛以下の任用制度の乱れを是正。嘉定初、楼鑰と知貢挙、声律度数に偏った学風を義理の文に戻し、内外制の文は温醇雅厚と評された。
  • 刑部侍郎、吏部を兼職、趙師睪の知臨安府への不允詔の起草を、師睪が権臣に媚びて昇進したことを理由に拒んだ。寳謨閣直学士、龍図閣待制・知泉州・建康府・福州・福建路安撫使。寛大な政を主とし塩税の弊(産塩・浮塩の名目での過重負担)を蠲除しようとしたが認められず辞去、権兵部尚書兼修玉牒官・太子詹事。金への歳幣使が金の内紛で納められず金が挙兵の構えを見せた際、大義を掲げ関係断絶を主張し朝論はこれに従った。異夢の逸話とともにその夕方64歳で卒した。若くから文名が高く、晩年は述作の根本を教化に置き、続司馬光『公卿百官表』『年暦大事記』『備忘辨疑編年政要』『列伝挙要』等百余篇を著した。