出自と国是論
- 字は正則、温州永嘉の人。文藻に優れ淳熙5年進士第2人、平江節度推官、母の喪、武昌軍節度判官。少保史浩の推薦にも応じず、浙西提刑司幹辦公事、参知政事龔茂良の推薦で太学正・博士。輪対で「二陵の讎(靖康の恥)が未だ報いられず疆土の半ばが復されていないのは、機を待つ論に阻まれているからで、機は我から発するものであり彼の乗機・待時を待つのではない」と論じ、国是・議論・人材・法度の4つの「難」と、兵・財・官・吏それぞれに関わる5つの「不可」を詳論した。帝は目を病んでいたが「この志はすでに冺えた、誰がこれを任じられよう」と慘然と嘆じた。太常博士兼実録院検討官、陳傅良ら34人を丞相に推薦して多くが登用された。朱熹が兵部郎官の職に就く前に侍郎林栗の弾劾を受けた際、適は上疏して「道学」の名を持ち出して士を陥れる風潮(鄭丙が唱え陳賈が和した先例)を批判し、栗もこれに倣ったと非難した。
内禅への関与
- 光宗嗣位、秘書郎から知蘄州、尚書左選郎官。帝が疾で7か月朝せず重華宮への訪問が絶えた際、父子の親愛は自然のものであり定省を廃すべきでないと諌め、帝は重華宮へ2度赴いた。適はさらに、両宮の意を伝える仕組みを整え近習が言葉を増減できぬようにすべきと重ねて上奏したが聞かれず、孝宗が病に伏すと群臣が号泣して謁見を求めたが帝は行かず、適は宰相留正を「上の病は明らかなのに父子の対面を告げず臣下に軽議させている」と責めた。
- 孝宗崩御後も光宗が喪を執らず軍中に不穏の噂が広がると、適は正に「上疾而不執喪、将何辞以謝天下」と説き、嘉王を早く参決させれば疑謗が解けると進言、宰執が奏上し嘉王が皇太子に立てられた。帝の御批に退位を仄めかす語があり正は恐れて去り人心が揺れる中、知樞密院趙汝愚が対応に窮していたため、適が知閤門事蔡必勝に諮り、必勝・傅昌朝・闗礼・韓侂胄の4人で内禅の計を定め、太皇太后垂簾のもと嘉王(寧宗)が即位した。当日の表奏はすべて汝愚と適が裁定した。
事功の学と晩年
- 国子司業、汝愚が功賞を論じ適にも及ぼそうとした際「国難に忠を効すのは職分であり功はない」と辞退、韓侂胄が節鉞を望んで得られず汝愚を恨んでいることを伝えたが汝愚は聴かず、適は「禍いはここに始まる」と嘆いた。太府卿・総領淮東軍馬銭糧、汝愚が衡陽に貶謫されると適も御史胡紘の弾劾で降官、祠観・知衢州(辞退)、湖南転運判官、知泉州を経て寧宗への召対で党偏の解消と人材登用の再開を説いた。韓侂胄が偽学の名で士を貶した後に悔いていたため、適は楼鑰・丘崈・黄度の3人を推薦し禁網が緩んだ。権兵部侍郎、父の喪、開兵を勧める者がいる中、彊弱の勢を審らかにして実政(辺郡の防備、御前大軍の練兵)と実徳(重税の軽減)を先に行うべきと諌めた。
- 権工部侍郎、権吏部侍郎兼直学士院(疾で辞退)。四路出師の際、江防を先にすべきと諌めたが聞かれず諸軍が敗れ、丘崈が江淮宣撫使、適は寳謨閣待制・知建康府兼沿江制置使に任じられた。江北の州の節制を朝廷に請い、金兵大挙侵入の際には建康の民心動揺を鎮め、市井の悍少200人を募って夜襲を敢行して金軍を敗走させ、石跋・定山など各地の戦闘でも勝利を収めた。進宝文閣待制兼江淮制置使、屯田を措置し堡塢の議を上奏、石跋・定山・瓜歩の三大堡を要とする四十七処の堡塢を築いて四千五百人で守戍する体制を整えた。侂胄が誅殺された後、中丞雷孝友の弾劾で職を奪われ、以後13年間祠禄に甘んじた。寳文閣学士・通議大夫、嘉定16年卒、74歳、贈光禄大夫、諡忠定。慷慨な志で経済を自負し、侂胄が開兵しようとした際も終始慎重を説き続け、聴かれていれば南北の生霊の禍を免れたと惜しまれた。