宋史卷四百三十四 列傳第一百九十三 陳傅良

出自と学統

  • 字は君舉、温州瑞安の人。科挙の程文の弊を憂い自ら一家の文章を成すと人々が争って伝誦し、当世に文名を馳せた。永嘉の鄭伯熊・薛季宣がともに学行で聞こえ、伯熊の経制治法に精しく傅良はいずれにも師事したが季宣の学を最も多く受けた。太学入学後、張栻・呂祖謙と交わり、祖謙は本朝の文献の伝承と主敬集義の功を語り、それは栻に負う所が多いとした。進士甲科、教授泰州。参知政事龔茂良の推薦で太学録、通判福州では丞相梁克家の府事を委ねられ公平に処理したため強禦の輩に恨まれ、言官の弾劾で罷免、5年後に知桂陽軍。光宗立、提挙常平茶塩・転運判官。湖湘の民が異姓を嗣子とした際に官がその財を没収する慣行を「絶人嗣非政」として改め、約2千家を救済した。浙西提点刑獄、吏部員外郎、朝廷を離れて40年ぶりの帰郷では鬚鬢に黒いところがなく、都人が「老陳郎中」と呼んで嘆じた。

太祖への回帰論と光宗への諫言

  • 学は三代秦漢以下すべての事物に研究を極め、とりわけ太祖の開創の本原に潜心し、輪対で「太祖は愛惜民力を本としたが、熙寧以来上供額が祥符期の倍に増え、崇寧の重修上供格でさらに数倍となり、雑斂は熙寧の常平寛剰・禁軍闕額から元豊の経制・宣和の総制・紹興の月椿まで積み重なり、州県は民から搾取するほかなく民は困窮しきっている」と論じ、太祖の遺沢を推行して寛民を図るべきと説いた。また江上の軍は都統司が御前軍馬を握り総領所が大軍銭糧を握って権限が分立し寛民の道が閉ざされていることを指摘し、内外を一体化すべきと説き、帝は嘉納した。
  • 秘書少監兼実録院検討官、嘉王府賛読、起居舎人、権中書舎人。光宗の妃黄氏が李皇后に殺された事件の後、光宗が郊祀の際の大風雨で心疾を発し章疏の処理が滞ると、傅良は「壅底致疾」の状を上奏した。重華宮への朝見が滞る中、内侍陳源の任用にも反対し詞頭を書かなかったところ、帝が過宮しようとして詔を発した際、傅良は自らの上疏が容れられたと思っていたが実は中変し、百官が班列して待つ中、帝は結局出御せず、皇后が帝を制止し傅良を叱った逸話があり、傅良は殿を下りて哭し、秘閣修撰兼賛読に改められた。
  • 寧宗即位、中書舍人兼侍読直学士院同実録院修撰。朱熹が外宮観に配される詔が出た際「熹は難進易退の人物」と評し内批の行を書かなかったため、寳文閣待制で郡に出され、後に察官の弾劾で削秩罷免、嘉泰2年復官・知泉州(辞退)、集英殿修撰・寳謨閣待制、67歳で家で卒した、諡文節。著述に『詩解詁』『周礼説』『春秋後伝』『左氏章指』がある。