宋史卷四百三十四 列傳第一百九十三 薛季宣

学統と地方防衛の実践

  • 字は士龍、永嘉の人、起居舎人薛徽言の子。徽言が死したとき季宣は6歳で、伯父の敷文閣待制弼に引き取られ、渡江の諸老に接して中興経理の大略を聞いた。17歳で荊南帥の書写機宜文字となり、程頤に学んだ袁溉に師事してその学を尽く受け、封建・井田・郷遂・司馬法の制度を研究し実践可能な形に仕上げた。
  • 金兵がまだ至らぬ頃、武昌令劉錡に武昌の形勢と兵の寡弱を説いたが聞かれず、後に金兵が交わると徐々に季宣の策を用いた。汪澈が荆襄を宣諭した際には成閔を潁昌へ進ませ金の内顧・驚潰を誘う策を進言したが聞かれなかった。江淮の官吏が金兵到来を恐れ家族を先に逃がす中、季宣は民と生死を共にする約束をして民も奮起した。盗が多発する県では保伍法(五家一保、二保一甲、六甲一隊)を整え、諸総に射を習わせ蒲博・雑戯を禁じつつ武事を許し、死者への手当も定め、楼と烽火の整備、要地への戍の設置、戦艦の調達で人心を安定させた。

孝宗への直言と晩年

  • 樞密使王炎の推薦で大理寺主簿に召されたが、赴任前に炎への謝書で「主上は英特だが緝熙の具を持つ群臣がなく僥倖功利を誇言している、仁義紀綱を本とし用兵は10年後にすべき」と述べた。江湖の大旱で流民が北渡した際、宰相虞允文の命で淮西の実辺策を担当し、廃田・原隰の再開発、合肥に36の圩、黄州故治東北に22の荘を立てて帰正者685戸を安置した。光州守宋端友が北帰者を捏造して奏賞を求めた不正を暴いて弾劾し、端友は憂死した。孝宗への進言で近習による讒言や虚偽の推薦の害、齊威王の阿・即墨の故事を引いて誅賞の実質が毀誉の者に握られていることを批判した。淮郡の築城の粗雑さ(中使督視による楼の崩落等)も批判し、好名を戒める風潮に対しては「士人が好名を畏れれば義も畏れなくなる」と説いた。
  • 大理正に進み奏請論薦がすべて許されるようになったが、虞允文の忌憚に触れ7日で知湖州に出された。経総制の額外徴収の弊害を朝廷に訴え、戸部の督責に強く争って臺諫の助けも得たが知常州に転じられ、赴任前に40歳で卒した。詩書春秋中庸大学論語に訓義を残し、著述に『浪語集』がある。