出自と朱熹との師友関係
- 字は季通、建州建陽の人。生まれつき頴悟で8歳で詩を作り日に数千言を記憶した。父の発は博覧の人で「牧堂老人」と号し、程氏語録・邵氏経世・張氏正蒙を元定に授けて「これぞ孔孟の正脈」と語った。元定はその義に深く通じ、西山の絶頂で飢えを忍んで読書を続けた。朱熹の名を聞いて師事すると、熹は「これは私の老友であり弟子の列に置くべきでない」と驚き対榻して講論し、四方の学者にはまず元定に質正させた。太常少卿尤袤・秘書少監楊万里が連名で朝廷に薦めたが病を理由に堅く辞し、西山に室を築いて終焉の地とする計画を立てた。
偽学の禁と道州への謫居
- 韓侂胄が政を専らにし偽学の禁を設けて善類を排斥する中、沈継祖・劉三傑ら言官が朱熹への弾劾を重ね元定にも及んだ。元定は門人の劉礪に「化性起偽、烏得無罪」と語り、まもなく道州へ謫され、命が下ると即座に出立、熹をはじめ数百人が寺で餞別した。元定が平静を保つのを見て熹は「友朋相愛の情も季通の挫けぬ志も両方得た」と喟然と語り、元定は「執手笑相別、無為兒女悲」の詩を賦した。「獲罪于天天可逃乎」と語り、子の沉とともに徒歩3千里を行き、脚から流血しても顔色を変えなかった。舂陵に至ると遠近から学者が日に集い、才を誇り前修を非笑していた者も服して弟子の礼を執った。生徒を謝絶すべきとの勧めに「彼らが学びに来るのをどうして拒めよう」と答え、子の沉に「独行不愧影、独寝不愧衾」の訓を残した。侂胄誅殺後、贈廸功郎、諡文節。
学問と著述
- 元定は書を読み尽くし事を究め、義理は本原まで見通し図書・礼楽・制度にも精妙で、古書の奇辞奥義も一読で理解したという。朱熹は「人読易書難、季通読易書易」と評し、熹の四書疏釈・易詩伝・通鑑綱目はみな元定と往復参訂し、『啓蒙』の草稿は元定に書かせた。熹の誄文に「精詣之識、卓絶之才、不可屈之志、不可窮之辯」とある。学者は「西山先生」と尊称した。著書に『大衍詳説』『律呂新書』『燕楽原辯』『皇極経世』『太玄潜虚指要』『洪範解』『八陣図説』(熹が序)。
- 子の淵・沉はともに躬耕して仕えず、淵に『周易訓解』がある。沉、字は仲黙、朱熹に学び、熹が晩年に書伝を著そうとして果たせなかったのを託され完成させた。洪範の数学は久しく伝が絶えていたが、元定が心得ていたものを未だ論著せぬまま「我が書を成す者は沉なり」と語り、沉は父師の託を受けて数十年沈潜の末に完成させ、易の象と範の数の対応関係を論じた。元定の謫居の道を父子で共にした後、元定の没後は徒歩で喪を護って帰り、贈られた金品を「先人に累を及ぼせない」と辞退した。九峯に隠居し名卿に薦められかけたが応じなかった。次子の抗は別に伝がある。