家学と学官
- 字は伯恭、尚書右丞呂好問の孫。祖の代から婺州に居し、中原文献の伝を家庭に受け継いだ。林之竒・汪応辰・胡憲に学び、張栻・朱熹と交わって講索を精しくした。蔭補で入官、後に進士に及第し博学宏詞科にも及第。南外宗教で母の喪に服し明招山で教授すると四方の士が争って集った。太学博士、輪対で恢復の大事のため計画を審らかにし人材を精選して次第に実行すべきと孝宗に上言した。
- 館職試では通例先に問目を求めるが祖謙はそれをせず文が特に優れていた。陸九淵の文を事前に読んで気に入っていたが、礼部試の答案を見て「これは江西の小陸の文だろう」と当て、九淵はその鑑識に服した。父の喪、秘書郎・国史院編修官・実録院検討官、修撰李燾の推薦で徽宗実録の重修を担当し完成させ進秩。輪対で治道の体統は上下内外が相侵さないことにあるとし、大臣が細務まで兼ねて監司・守令の権限が上に侵されている弊害を論じ、また国朝の治体は寛大忠厚・礼遜節義の面で前代に優るが武績・幹略が未振であることも指摘した。
『皇朝文鑑』の編纂と晩年
- 著作郎に遷り末疾のため祠を求めて帰った。書肆に『聖宋文海』という書があり、孝宗の命で臨安府が校正刊行しようとしたが学士周必大が「取捨に誤りがあり館職に精選させるべき」と言い、祖謙に命じられた。祖謙は中興以前に断って崇雅黜浮の基準で150巻に選び『皇朝文鑑』の名を賜り、直秘閣に任じられる際、中書舎人陳揆が反対したが孝宗が「館閣の職は文史を先とすべき」との批旨で押し切った。著作郎兼国史院編修官、卒、45歳、諡成。
- 学は関洛を宗としつつ諸書を広く稽え、心平気和で崖異を立てず、英偉卓犖な士がその心に帰した。若い頃は卞急だったが「躬自厚而薄責於人」の句を読んで氷解したという。朱熹は「学如伯恭方是能変化気質」と評した。『詩記』『大事記』は未完に終わったが、『古周易』『書説』『閫範』『官箴』『辨志録』『欧陽公本末』は世に行われた。晩年の会友の地「麗澤書院」は金華城中にあり、没後郡人がこれを祠った。子延年。