初任と孝宗への上疏
- 字は廷秀、吉州吉水の人。紹興24年進士第、贛州司戸、永州零陵丞。張浚が永州に謫居し門を閉ざしていた際、3度訪ねてようやく会い、正心誠意の学を勧められて生涯これに服し、読書の室を「誠斎」と名づけた。浚が入相して推薦、臨安府教授(未赴任)、父の喪、知隆興府奉新県では追胥(催徴吏)を町に入れず逋賦者の名を市中に掲げることで税を治めた。
- 陳俊卿・虞允文の推薦で国子博士。張栻が論張説で左遷される際、留任を求める上疏と允文への書簡で和同の説を規した。太常博士、丞兼吏部右侍郎、将作少監。知漳州・常州、提挙広東常平茶塩、盗沈師の討伐で「仁者之勇」と孝宗に称される。提点刑獄、潮恵二州の外砦築城を献策。尚左郎官。
淳熙十二年の応詔上書
- 淳熙12年5月、地震に応じて上書し「有事の時に無事を言うのは害である」との十の論点を述べた。金の情勢が不測であるのに繕城・練兵を進めていること、金主北帰の意図が単純に喜べぬこと、淮を捨てて江を守ることの誤り(呉と南唐の故事を引く)、守帥選任の責任所在が不明なこと、南北の長技(北の騎射、南の舟歩)の違いを軽視していること、礼文修飾に偏り防備を怠っていること、天変(熒惑・鎮星の異変、両日の異象、季節外れの雨雪、地震)を軽視していること、頻年の旱害と流民に無策であること、銭が富商・宦官・権貴に偏り軍の給与が紙幣に頼っていること、名相・名将(趙鼎・張浚・岳飛・韓世忠)に匹敵する人材が今なく劉珙・張栻も早世したことを、それぞれ挙げて憂慮を訴えた。
東宮講官から晩年
- 東宮講官の欠員に際し帝は萬里を侍読官に抜擢し、士人はこれを喜んだ。王淮が「宰相の先務は」と問うと「人材」と答え、朱熹・袁枢ら60人を推薦して次第に登用された。樞密院検詳・右司郎中・左司郎中。淳熙14年夏の旱に応詔言、上澤が下に流れず下情が上に達しないことを憂う四事を上奏。秘書少監。高宗崩御に際し孝宗が三年喪を行おうとし議事堂を創設して皇太子に庶務を参決させようとしたのを萬里は諫止する上疏と太子への書で止めさせようとした。翰林学士洪邁が高宗の配饗の人選を独断で行ったことを弾劾したが孝宗の不興を買い、直秘閣出知筠州となった。
- 光宗即位、秘書監。朋党論の害(人主の怒りを煽り人材を空しくするのは朋党論だとし、党派を問わず君子小人を判別すべきと論じる)や、大臣・大将・外戚・近習による権力簒奪、とりわけ近習の窃権が最も防ぎがたいことを論じた。紹熙元年、接伴金国賀正旦使兼実録院検討官。孝宗の日暦編纂で王藺が序を萬里に命じたが宰臣が礼部郎官傅伯寿に委ねたため失職を訴えて辞職を求め、江東転運副使、江南への鉄銭施行に反対して宰相の意に触れ知贛州(赴任せず)、乞祠、秘閣修撰・提挙万寿宮で以後は出仕しなかった。
- 寧宗嗣位、召されたが辞し煥章閣待制・提挙興国宮、致仕を願い寳文閣待制致仕、嘉泰3年寳謨閣直学士、開禧元年召されたが辞し翌年寳謨閣学士、83歳で卒、贈光禄大夫。剛而褊の性格で、孝宗が才を愛したが周必大に問うと悪評され用いられなかった。韓侂胄が南園記を依頼した際「官は棄てても記は書けない」と拒み、以後14年家に籠った。侂胄の専権が甚だしくなると憂憤して病を得、族子から用兵の報を聞いて慟哭し「韓侂胄姦臣専権無上動兵残民謀危社稷」の紙を書き残して逝去した。詩に精しく『易伝』を著し、光宗から「誠斎」の二字を賜り学者は誠斎先生と称した。諡文節、子長孺。