宋史卷四百三十三 列傳第一百九十二 林光朝

林光朝

  • 字は謙之、興化軍莆田の人。礼部試に再度落第、呉中の陸子正が尹焞に学んだと聞いて従学、以後聖賢践履の学に専心して六経百家に通じ言動は必ず礼に則った。南渡後、伊洛の学を東南に唱えたのは光朝に始まるとされるが著書は残さず口授のみで、「道の本体は太虚に等しく、後世の注解を加えるほど道は遠のく」と語った。
  • 隆興元年、50歳で進士及第、袁州司戸参軍。乾道3年、龍大淵・曾覿の弾劾論駁が行われず張闡が力尽きて辞した際、光朝と劉朔が名儒として召され対策で二人の罪を論じた。左承奉郎・知永福県に左遷されたが、大臣の推薦で館職試を経て秘書省正字兼国史編修実録検討官、著作佐郎兼礼部郎官、乾道8年に国子司業兼太子侍読。張説の再任を賀さなかったため広西提点刑獄に出され、広東の茶寇が江西から嶺南まで荒らした際、自ら郡兵を率い将を配して撃退させ、帝から「儒生でも兵を知るのか」と評された。
  • 直宝謨閣、国子祭酒兼太子左諭徳。帝が国子監で中庸講義を聴き金紫を賜り、まもなく中書舎人。吏部郎謝廓然が曾覿の推薦で殿中侍御史に任じられようとした際「台諫を軽んじ科目を辱める」として詞頭を封還、工部侍郎(不拝)、集英殿修撰・知婺州。士望は篤かったが疑われることもあり、繳駁の一件で士論が服した。疾により提挙興国宮、65歳で卒した。