高閌
- 字は抑崇、明州鄞県の人。紹興元年上舎選で進士第を賜り、執政の推薦で秘書省正字。新進士に儒行・中庸の両篇を賜る予定に対し「儒行の説は不醇である」として中庸のみとするよう建言し容れられた。権礼部員外郎兼史館校勘、春秋の正名の法を引いて樞密院と都督府の兵権分立、六卿と諸官の職権侵害、給舎・台諫の権限混乱を論じる上奏を行った。
- 著作佐郎、言者に論罷され主管崇道観、召されて国子司業。太学興隆に際し経術を先とすべきと奏し、帝の「詩賦に慣れた士に経術を通じさせられるか」との問いに神宗の経術造士の故事を挙げて答えた。経義を主とし詩賦・子史論・時務策を続ける試験制度を建言し、太学課試と郡国科挙の基準を統一。全州文学師維藩を国子録に推薦した。新学落成の折6千人が補試を受け、帝が太学に幸し秦熺が経を執り高閌が易泰卦を講じて三品服を賜った。胡寅が高閌の柄臣(秦檜)への阿諛を非難する書簡を送った逸話がある。
- 高閌は少より程頤の学を宗とし、宣和末に楊時が祭酒であった頃は諸生の一人、胡安国が士を訪ねた際にその首に挙げられた。禮部侍郎、帝が張九成の安否を問い、翌日秦檜にも問うたことから檜が高閌の関与を疑い、中丞李文会に弾劾させ知筠州(赴任せず)で卒した。秦棣の求婚を辞退した逸話が伝わる。著述に『春秋集伝』。