宋史卷四百三十三 列傳第一百九十二 喻樗

喻樗

  • 字は子才、先祖は南昌の人で愈薬が梁に仕え安州刺史となり武帝から喻姓を賜った。16世孫にあたる樗は厳州に居し、伊洛の学を慕った。建炎3年進士第。人となり質直で議論を好み、趙鼎が樞筦を去り常山に隠棲していた際に訪ね「主君への進言は啓沃を多くし施行を少なくすべき」と諷して奇とされ上客となった。
  • 鼎が川陝荊襄都督となった際、樗は属官に。紹興初、高宗親征の折、樗は鼎に「この挙は万全か」と問い、鼎「和議は不可能なので賛成した」と答えると、樗は「帰路を思うべき」と述べ、張徳遠(張浚)を宣撫使として起用し軍・府庫・銭穀を統括させる策を献じた。鼎はこれを容れて奏上し浚が樞密院事に起用され、浚も「この挙は人心に叶う」と喜んだ。樗は鼎と浚の間を往来して補益し、鼎の推薦で秘書省正字兼史館校勘となった。
  • 金退兵後、鼎・浚が並んで相となる噂の中、樗は「両人は同じく樞府にあるべき、後日どちらかが去っても他方が継げばよい」と献策し、後にその通りとなった。樗と張九成が和議に反対したため秦檜に憎まれ、樗は知舒州懐寧県・通判衡州に左遷され致仕、檜の死後、大宗正丞・工部員外郎・知蘄州、孝宗即位後は提挙浙東常平、淳熙7年卒。人物鑑識に優れ、沈晦・張九成・凌景夏・樊光遠らの科挙合格順位を予言的中させた逸話、汪洋・張孝祥を娘婿に選んだ逸話が伝わる。