宋史卷四百三十三 列傳第一百九十二 邵伯温

出自と邢恕の定策事件

  • 字は子文、洛陽の人、康節処士邵雍の子。雍と交わった司馬光・韓維・呂公著・程頤兄弟らも伯温の学識を認めた。司馬光が伯温を推薦しようとしたが薨去で果たせず、後に河南尹の推薦で大名府助教・潞州長子県尉。
  • 蔡確が相であった頃、神宗崩御・哲宗立に際し邢恕が定策の功を捏造しようと図り、司馬康を河陽に呼び蔡確を称える書を書かせようとした。伯温は康に「恕は傾巧の人物、従えば後日の悔いとなる」と忠告したが康は聞かず書いてしまい、後に悔いた。梁燾も恕に誘われかけたが、呉処厚が確の詩を謗訕として弾劾すると燾は劉安世とともに確の誅を求め恕の罪も論じ、康にも累が及んだ。

出処と元祐紹聖の政

  • 康の子植が幼くして孤児となった際、宣仁太后・呂大防の意で伯温が西京教授として植を教育し「温公の孫、大諫の子として恥じぬよう」と誨えた。紹聖初、章惇が相となり康節に師事した縁で伯温を用いようとしたが応じず、程頤の忠告を受けつつも吏部銓に赴き、先に部で官を擬してから宰相に会う対応を取った。惇が康節の学に及ばなかったことを悔やむと、伯温は「先君の先天の学は仇怨をも忘れさせるものだ」と答え惇を動かしたが、伯温自身は郡県の吏を願い監永興軍鋳銭監に留まった。
  • 元祐諸賢の南遷の際、伯温は范祖禹・范純仁を訪ねて敬意を示した。西辺の用兵で夏地を回復した際、従軍者は昇進の機会があったが伯温は同列に譲った。惇がなお相位にあったため京師を避け環慶路帥幕に赴いた。
  • 徽宗即位、日食による求言に応じ数千言の上書をし、祖宗の制度への回帰、宣仁太后への誣謗の弁明、元祐党錮の解除、君子小人の分別、労民用兵の戒めを説いた。別に『辨誣』を著して宣仁太后の誣謗を弁じたが、崇寧大観間の元符上書人分類で邪等に分類され、この書がその理由とされた。

晩年

  • 華州西嶽廟監、知峽州霊宝県、芮城県、母の喪、永興軍耀州三白渠公事。童貫が宣撫使として来訪した際、士大夫が群がる中、伯温は避けて他州に出た。知果州で瀘南諸州の絹綿の歳輸削減を請い、知興元府・遂寧府・邠州(いずれも赴任せず)、提点成都路刑獄。賊史斌が武休を破り漢利を侵し剣門を窺った際、成都帥臣盧法原と合謀して剣門を守り抜き蜀人に徳とされた。利路転運副使・提挙太平観、紹興4年卒、78歳。邵雍の「世行乱、蜀安可避」の言に従い宣和末に家族を蜀に移し難を免れていた。
  • 元祐紹聖の政について、蔡確は死しても宰相であった経緯を尊重すべきとし、范忠宣は国体を知る者と評し、劉摰・梁燾・王巖叟・劉安世は忠直だが疾悪の度が過ぎ後日の禍を招いたと論じた。趙鼎は若くして伯温に学び、相となった際に追録を求めて秘閣修撰を贈られ、伯温の墓に「学行を以て元祐に起ち、名節を以て紹聖に居り、言を以て崇寧に廃す」と記した。著書に『河南集』『聞見録』『皇極系述』『辨誣』『辨惑』『皇極経世序』『観物内外篇解』ほぼ100巻。3子は溥・博・傅。