宋史卷四百三十二 列傳第一百九十一 胡旦

出自と初任

  • 字は周父、濱州渤海の人。少にして雋才があり博学能文、進士第一で及第(状元)。将作監丞・通判昇州。江南平定後、李氏が度僧した者の6、7割が還俗を強いられ田廬を失っていたことを憂い、盗となるのを防ぐため悉く黥面して兵とすることを進言した。左拾遺直史館、時政の利病を上書、淮南東路転運副使・知海州。

河平頌と平燕議

  • 盧多遜の貶謫・趙普の罷相の年、河決韓村がまもなく塞がれた際、胡旦は「河平頌」を献上したが、その辞に盧多遜・趙普への当てこすりと解せる語があり、太宗はこれを咎めて殿中丞・啇州団練副使に貶謫した。
  • のちに「平燕議」を上奏し、幽州攻略の好機について天時・地利・人事の観点から詳細な戦略(雲州以北の情勢分析、辺境の富の活用、将の分担配置、通商による財源確保など)を献策した。

浮沈の官歴

  • 左補闕に起用され直史館復帰、修撰・国史編修、尚書戸部員外郎知制誥、司封員外郎。代筆業者の翟頴を唐の馬周になぞらえて時政を批判する上書をさせた事件に関与し、翟頴は流刑、胡旦も坊州団練副使に貶謫された。さらに宋白に無断で謁見した罪で処分され絳州へ移された。
  • 工部員外郎直集賢院、本曹郎中知制誥史館修撰。宦官王継恩と親しく、その制文を美辞で書いたことが継恩失脚後に真宗の怒りを買い、安遠軍行軍司馬に貶謫、さらに削籍され潯州に流された。咸平初、通州団練副使、徐州、祠部員外郎分司西京、保信軍節度副使を経て、司封員外郎通判襄州、封泰山、祠部郎中。母の喪に服し、かつて父の喪の際に詔で服喪を短縮させられたことを理由に3年の服喪を追行するよう請い、その間に失明した。

晩年

  • 秘書省少監致仕、襄州に居し、後に秘書監に再任されて卒。読書を好み、失明後も人に経史を誦させて聴き続けた。『漢春秋』『五代史略』『将帥要略』『演聖通論』『唐乗』『家伝』等300余巻を著し、「胡旦修漢春秋硯」と刻んだ大硯を作って埋めた逸話がある。晩年は貨殖に貪欲で州県を煩わし世論に批判された。死後、子孫は貧窮し柩を民間に置いていたが、皇祐末、知襄州王田が朝廷に言上して銭20万を得て葬った。