宋史卷四百三十一 列傳第一百九十 李之才

李之才

  • 字は挺之、青社の人。天聖8年同進士出身。人となりは朴直で率直、少しも矯飾がなかった。師の穆修は性格が荘厳で人を寄せ付けなかったが、しばしば叱責されても李之才は謹んで仕え、ついに易を伝授された。蘇舜欽らも穆修に易を学んだが、専授されたのは李之才のみであった。穆修の易は种放に受け、その源流は陳搏にまで遡り、図書象数変通の妙は秦漢以来知る者が少なかった。
  • 衞州獲嘉主簿・権共城令の頃、母の喪に服して蘇門山百源の上に隠棲していた邵雍を訪ね、簡策の学だけでは足りないと説き、まず陸淳の春秋を示し、後に易を授けて師弟の礼を結んだ。李之才の器量の大きさは容易に世に用いられず、石延年は「時が君を容れるに足りない」と評した。
  • 孟州司法参軍時代、范雍が延安を去る際に多くの者が境外まで見送ったが李之才だけは近郊で別れ、後に范雍が安陸に左遷された際に洛陽まで見送りに来たのは李之才一人であったため、范雍は「知るのが遅すぎた」と悔いた。尹洙が葉道卿への書簡で李之才の才を推薦し、澤州簽署判官として登用された。澤州では劉羲叟に暦法を伝授し、羲叟の暦法は楊雄・張衡も及ばぬほど精緻と称された。殿中丞に転じ、母の喪が明けたのち懐州の官舎で急死した。邵雍が墓誌に「天下に道を聞く君子を求め、李公を師とした」と記した。