宋史卷四百三十一 列傳第一百九十 李覺

出自と初任

  • 字は仲明、京兆長安の人。曾祖鼎は唐国子祭酒・蘇州刺史、唐末の乱で青州益都に避難。祖瑜は本州推官。父成、字は咸熙、酒を嗜み琴棋書画に長け、周樞密使王朴が推薦しようとしたが朴の死で叶わず、乾徳中に衞融に招かれ陳州で客死した。
  • 子の覚は太平興国5年九経及第、起家将作監丞・通判建州。左賛善大夫・知泗州、秘書丞。孔頴達五経正義刊行の際、孔維とともに校定に当たった。燕薊出兵時、京東諸州の芻糧督送を命じられ、孔維の推薦で礼記博士・緋魚。

交州への使と晩年

  • 雍熙3年、右補闕李若拙とともに交州への使、黎桓に険阻な地勢を問われた際「国家提封万里、四百の郡があり、この一方ばかりでない」と応じ、桓を沈黙させた。国子博士。端拱元年、太宗の国子監視察時、講座にあった李覚を召して周易泰卦を進講させ、帛百疋を賜った。
  • 直史館を兼ねたことに王禹偁が異議を唱えたが、李覚は韓愈「毛頴伝」に倣い「竹頴伝」を作って献上し、太宗に嘉されて禹偁の奏は退けられた。淳化初、田敏が誤って刪去した経書の字句を孔維とともに校定。春秋正義の校定を経て水部員外郎・判国子監、司門員外郎。病により致仕を求めるも許されず卒。
  • 養馬・漕運・屯田の三事を詳論した上書が太宗に評価された。開封府秋賦挙人の試験で算術(雉兎首足の法)を簡易化して見せ、座中の吏を感服させた逸話がある。子宥は大中祥符5年進士、祠部員外郎・集賢校理。