出自と後周での事績
- 字は敦美、河南偃師の人。父協は後唐門下侍郎平章事。幼くして母を失い外祖母に養われた。蔭補河南府巡官、開封主簿、鄧州録事参軍。上書して宰相桑維翰に見出され左拾遺・右補闕。呉越王冊封の副使として江南に赴いたが、帰路に軍士に略奪された。
- 世宗が澶淵鎮守の時、王朴・王敏中とともに僚佐に選ばれ観察判官、金紫を賜った。世宗尹京の際、司封員外郎充判官。断獄の誤りで一時罷免も即位後に駕部郎中、吏部を経て両浙への使。世宗が唐の元稹均田疏を諸道に頒って租賦均分を命じた際、崔頌は兗州に使して旧額を増額した。恭帝嗣位、左諫議大夫。
宋初の事績と子曥
- 宋初、判国子監。国学・武成王廟の重修を統括し、建隆3年夏に講説を開始、太祖から酒果を賜った。太祖が国学に幸するたびに崔頌と経義を論じ、応答は滞りなかった。郊祀の際、太僕に摂官し礼儀の応答が評価された。請託事件により保大軍行軍司馬に左遷、乾徳6年、急病により50歳で卒した。詼諧を好み、仏像を敬い、性は多疑で職務中に目隠しをして工事を監督した逸話がある。
- 子曉は太子右賛善大夫。子曥、字は文炳、雍熙2年進士、屯田員外郎・開封三司戸部判官を歴任。雍王元份の府官が処罰された際、崔曥の謹厚さが評価され戚維に代わって翊善に任じられた。都官員外郎・記室参軍、金紫を賜り、兵部郎中・知河中府・太常少卿・将作監で卒した。