宋史卷四百三十一 列傳第一百九十 孔宜

原蚕禁止論争と晩年

  • 原蚕(重ね飼いの蚕)の禁止を上書したが、直史館樂史が管子の言を引いて反論し、蚕桑の重要性と国馬の飼育不備を理由に的外れと批判、上はこの奏で禁令を保留した。孔維は重ねて周礼夏官の禁原蚕の規定と天文・蚕書の説を根拠に上疏し、蚕と馬は気を同じくすると論じた。上は用いなかったが博識を評価した。籍田を終え国子祭酒。淳化初、工部侍郎を兼ね、2年卒、64歳。
  • 九経挙人の再挑戦を認めるよう建言し許可された。高麗使に会った際に自らの緋衣を恥じ涙ながらに太宗に訴え金紫を賜った逸話、祭酒の地位が久しく置かれていなかったため田敏の旧例を援用して兼領を求めた逸話がある。太学拡張を建言したが民家侵害を理由に却下された。五経疏義の校定中に病、印書銭の私用が発覚し家財で弁済、赦されて咎められなかった。臨終に婿鄭革に遺表を口授。景徳4年、孫禹圭に同学究出身を録した。

系譜と生涯

  • 字は不疑、兗州曲阜の人、孔子44世孫。系譜は鯉(伯魚)―伋(子思)―白(子上)―永(子家)―箕(子京)―穿(子高)―謙(子慎)―鮒(子魚、弟騰が嗣ぐ)―正(季忠)―武・延年・安国―霸(次孺、漢の博士・太中大夫、闗内侯・襃成君)―福―房―均(長平、王莽期の襃成侯、追諡襃成宣尼公)―(後漢建武期)志(襃成侯、諡元成)―損(襃亭侯)―曜―完(弟の子羨が嗣ぐ、魏の宗聖侯)―震(晋の奉聖亭侯)―嶷―撫―懿―鮮(宋の奉聖侯)―乗(後魏の崇聖大夫)―靈珍(崇聖侯)―文泰―渠(北齊の㳟聖侯、北周宣帝が孔子を鄒国公に追封)―長孫(隋の鄒国公)―嗣哲(唐の紹聖侯)―徳倫(襃聖侯)―崇基―璲之(開元中に孔子を文宣王と追諡、璲之を襲文宣公とす)―萱―齊卿―(子孫が兗州司馬・曲阜令等を歴任し文宣公を世襲)―策―振―昭儉―光嗣―仁玉(後唐長興初、曲阜主簿、後に龔丘令・襲文宣公)と続く。
  • 仁玉の子・宜は乾徳中に詣闕上書し曲阜主簿、黄州軍事推官を経て司農寺丞。星子鎮市征を建言し県設置に至り、南康軍。文賦を献じて太宗に嘉され、太子右賛善大夫・襲封文宣公。太平興国8年、曲阜孔子廟の修築。殿中丞。雍熙3年、王師北征に際し軍糧督送中、拒馬河で溺死、46歳。
  • 子延世が学究出身を賜り曲阜主簿・襲封文宣公。子聖祐は9歳で同学究出身、大中祥符元年東封の際に陪位し孔子廟で酌献の礼に列した。孔子に玄聖文宣王の諡号が追加され、父叔梁紇・母顔氏にも追封が行われた。聖祐は太常寺奉禮郎、後に光禄寺丞・襲文宣公・知仙源県事、のち道輔と改名し左司諫・龍図閣待制(別に伝あり)。延世の他の子・憲は工部員外郎、冕・朂も官途にあった。