出自と直講
- 字は宗古、博州博平の人。幼くして師の王徹に学び、徹の死後は問学者数百人が孫奭に従った。九経及第、莒県主簿。講説を望んで大理評事・国子監直講となる。太宗が国子監に幸した際「事不師古以克永世匪説攸聞」を講じ、太宗に「至言なり」と感嘆された。
天書・封禅への諫言
- 真宗の代、諸王府侍読、太常礼院・国子監・司農寺、工部郎中、龍図閣待制。経術をもって出処し、阿附しなかった。大中祥符初、天書が左承天門で得られたとされ群臣が万歳を称える中、孫奭だけは「天何ぞ言わんや、いずくんぞ書あらんや」と懐疑を述べた。
- 上が汾陰祭祀を企図した際、大旱の折であることを踏まえ、10の不可を列挙した上疏を呈した。卜征の礼に反すること、后土祭祀の由来が明確でないこと、既に北郊を建てているのに汾陰へ赴く不要、西漢の都との距離の違い、河東と唐の事情の相違、周宣王の慎み深さに倣うべきこと、冬雷の異変、民を労し神を煩わすことの無益、漢武・唐明皇の虚名を慕うべきでないこと、唐明皇の禍乱の教訓、を挙げて諫めた。
- さらに上疏し、京師民心の不安・調発による江淮の疲弊・盗賊の跋扈・辺境情勢を憂い、陳勝・黄巣の乱の教訓を引いた。先帝の封禅停止の故事を引き、契丹への卑辞・西夏継遷への譲歩を批判し、天地神祇は徳による感応であって祭器で招けるものでないと論じた。その後、大中祥符6年、太清宮参拝に際しても唐明皇を範とすることの危険性を上疏したが、上は封禅・祭祀は明皇に始まったものではないとして退けつつも、孫奭の直言を咎めなかった。
侍講と晩年
- 帰郷を願うも許されず、知密州を経て左諫議大夫。天慶・天祺・天貺・先天降聖節の齋醮費用削減を求めたが聞き入れられず、知河陽・給事中・徙兗州。天禧中、朱能が乾祐天書を献じた際、再び上疏し、漢の文成将軍・五利将軍や侯莫陳利用の例、唐明皇の道教信仰による禍を詳論して批判した。減修寺度僧を請う上疏も行った。
- 仁宗即位後、翰林侍講学士・知審官院・判国子監、真宗実録の修撰。父の喪、兵部侍郎・龍図閣学士。無逸図を献上し講読閣に置かせた。章献明粛皇后の五日一度の聴政について毎日御殿すべきと上奏したが、留中されて実現しなかった。3度致仕を請い、承明殿で慰留されたが70余歳を理由に泣いて固辞、馮元とともに老子3章を講じた後に致仕を許され、工部尚書・知兗州となった。太清楼での宴、瑞聖園での宴等厚遇を受けた。
- 疾が重くなり子瑜に「婦人の手で死なせるな」と言い残して卒。上は張士遜に「まさに召還しようとしていたのに」と惜しんだ。贈左僕射、諡宣。父の喪に頬を舐めて拭った孝行の逸話がある。経典徽言50巻、崇祀録・楽記図・五経節解・五服制度等を著した。邢昺・杜鎬とともに諸経正義・荘子・爾雅の校定にあたり、多くの礼制上の疑義(圜丘外壝の有無、五郊従祀、七祠時饗、宗廟の二舞等)を援古して是正した。子瑜は工部侍郎で致仕。