宋史卷四百三十一 列傳第一百九十 邢昺

出自と初任

  • 字は叔明、曹州済陰の人。太平興国初、五経に挙げられ、廷試で師比二卦を講じ群経についても問われ、太宗にその精博を認められて九経及第。大理評事・知泰州鹽城監。楚州への移管を上言し許され、国子監丞・尚書博士・知儀州・国子博士・諸王府侍講・水部員外郎・司勲・金紫を歴任。

侍講学士としての活躍

  • 真宗即位後、司勲郎中、知審刑院(劉元吉と共同)。右諫議大夫、咸平初に国子祭酒。咸平2年、翰林侍講学士の職が新設され邢昺が任じられ、杜鎬・舒雅・孫奭・李慕清・崔偓佺らと周礼・儀礼・公羊・穀梁・春秋伝・孝経・論語・爾雅の義疏を校定した。淮南両浙巡撫使、左氏春秋を侍読で講じた。
  • 工部侍郎兼国子祭酒、知審官院。景徳2年、亡兄への贈典を願い許された。この年、上が国子監の書庫を視察し経版の数を問うと、邢昺は「国初は4千に満たなかったが今は10余万、経伝正義がすべて備わった」と答え、士庶が経書を持てる現状を「儒者の逢う幸い」と述べた。上はこれを喜んだが、学館の未振舉の件については建明できなかった。

晩年

  • 印書所の余紙売却益を三司に帰属させるよう請い、監学の公費不足を補った。張雍・杜鎬・孫奭とともに経術該博の士を挙げて学員を広げるよう命じられた。刑部侍郎。旧僚の淪喪を嘆く上の言葉に接し、翌日白金千両と妻への冠帔を賜った。
  • 景徳4年、老いを理由に帰郷を願うも慰留され、工部尚書・知曹州に抜擢。龍図閣を開いて宴を催し、詩を賜った際、壁の尚書礼記図を指して中庸篇の九経の大義を陳述し、上に嘉納された。大中祥符初、東封泰山の際に曹州父老の陳情を取り次いだ。礼部尚書。田事に詳しく、民の四大災(疫・旱・水・畜災)とその中でも旱害が最も甚だしいことを上言した。
  • 大中祥符3年、病を得て太医の診察を受け、上自ら見舞い薬・白金器千両・繒綵千両を賜った(宗戚・将相以外にこの礼を受けたのは邢昺と郭贄のみという故事)。子仲寶・若思を召し還らせ、卒。年79、贈左僕射、3子に進秩。雍熙中に撰した『礼選』20巻を太宗が喜び、賛を賜った。侍講では経に加えて時事を多く引いて喩え、管仲・召忽の忠義や文王・武王の寿命についての鄭注解釈など、太宗の問いに随事応答した。咸平中、王欽若の受賄疑惑事件で邢昺が推問して欽若の無実を弁じ、欽若に厚く感謝された。子仲寶は不才で罷官、若思は駕部郎中で終わった。