出自と学官としての事績
- 河南洛陽の人。若くして三礼を修め、礼学に通じ経旨を弁えた。後漢の乾祐年間に累進して国子礼記博士・校定公羊春秋刊板于国学となる。
- 後周顕徳年間、国子司業兼太常博士。世宗は郊廟祭器が有司の相承で年代を経て規式を失っていることを憂い、聶崇義に検討・図示を命じた。顕徳4年に図を上呈し、有司に別途製造させた。
禘祫の礼をめぐる議論
- 顕徳5年、太廟に祧室が無いため禘祫を行うべきでないとする議論が起きた際、聶崇義は魏明帝・宋文帝・梁武帝の故事を引いて反論し、禘祫は宗廟の完備・未完備に関わりなく行うべきものと論じた。世宗はこの議に従い、聶崇義に竇儼と共に郊廟祭玉を考定させた。
三礼図の編纂と祭玉論争
- 建隆3年4月、再校訂した『三礼図』を序文とともに上表。太祖はこれを嘉して聶崇義を賞し、太子詹事尹拙らに再検討させた。尹拙が多くを駁正すると聶崇義は経を引いて反駁し、工部尚書竇儀に裁定させ、両説を勘案して15巻にまとめ頒行させた。
- のちに祭玉・鼎釜の異同について再び論争が起き、中書省で吏部尚書張昭らが集議。聶崇義の蒼璧・黄琮の寸法説には周礼玉人職に明文がないと指摘され、崔霊恩『三礼義宗』の十二寸説の方が『白虎通』にも合致すると結論された。釜と鑊の図についても両説を併記することとなった。
- まもなく聶崇義は没し、『三礼図』は世に行われ国子監講堂の壁にも画かれた。学官として礼を掌ること約20年、その博学は世に推された。郭忠恕が姓を洒落て嘲弄した際、聶崇義は機知に富む返答をして忠恕を大いに恥じさせた逸話がある。