宋史卷四百三十 列傳第一百八十九 黄灝

清廉を貫いた南康の遺士

  • 黄灝、字は商伯、南康都昌の人。幼くして敏悟強記、荊山の僧舎で肄業すること三年、太学に入り進士に及第し隆興府教授、徳化県知事となり、学校を興し政化を崇めることを本とし歳饉には振給に方があった。王藺・劉頴が朝に薦め登聞鼓院に除された。光宗が即位すると太常寺簿に遷り、今の礼教が廃闕していることを論じ有司に政和の冠昏喪葬儀および司馬光・高閌等の書を取って参訂して行わせることを請うた。太府寺丞に除され常州の知事に出て本路常平を提挙した。秀州海塩の民が桑柘を伐り廬屋を毀ち莩殣が野に満ち、あるいは子を食らい一臂を持って行乞う者があったが州県はまさに逋欠を督促していた。灝がこれを見て蹙然とすると、時に旨で夏税を倚閣させていたので遂に秋苗も併せて閣することを乞い、報を俟たずこれを行った。言う者はその専らにしたことを罪し筠州に居を移された。まもなく謫命は寝み両秩を削るに止まりその蠲閣の請に従った。灝は既に里に帰ると幅巾深衣で驢に騎り匡山の間に隠者のようであったが、起用されて信州の知事となり広西転運判官に改め広東提点刑獄に転じ告老して赴かず卒した。灝は性行端飭で孝友をもって称された。以前、熹が南康を守るとき灝は弟子の礼を執って質疑問難したが、熹の没後、党禁がまさに厳しかったとき灝は単車でその葬に赴き、徘徊して去るに忍びなかったこと久しいものであった。