宋史卷四百二十七 列傳第一百六十八 邵雍

先天易学の安楽先生

  • 邵雍、字は堯夫。その先は范陽の人。父の古は衡漳に徙り、また共城に徙った。雍は年三十で河南に遊びその親を伊水の上に葬り、遂に河南の人となった。雍は若い頃自らその才を雄とし、慷慨として書に功名を樹てることを望み、読まないところがなかった。学を始めると堅苦刻厲、寒くとも爐せず暑くとも扇がず夜も席に就かぬこと数年、既にして「昔の人は古を尚友したのに私はまだ四方に及んでいない」と嘆じ、河汾を踰え淮漢を渉り、斉魯宋鄭の墟を周流すること久しく、幡然として来帰し「道はここにある」と言い、遂に復た出なかった。北海の李之才が共城令を摂り、雍が学を好むと聞いてかつてその廬を訪れ「あなたは物理性命の学を聞いたことがあるか」と言うと、雍は「幸いにも教えを受けたい」と答え、之才に事えて河図洛書・宓羲八卦・六十四卦図像を受けた。之才の伝えるところは遠く端緒があったが、雍はその奥深きを探り隠を索め妙悟神契、蘊奥を洞徹して汪洋浩瀚、多くはその自ら得たところであった。その学が老いるにつれ徳もますます高まり、心を高明に玩んで天地の運化・陰陽の消長を観、遠くは古今の世変、微しくは走飛草木の性情まで深く造り曲暢し、いわゆる惑わずして依倣象類し億えばしばしば中るというものではなかった。遂に宓羲先天の旨を衍じて書十餘万言を著し世に行われたが、世でその道を知る者は少なかった。初め洛に至り蓬蓽環堵で風雨をも遮れなかったが、自ら樵爨して父母に事え、平居屡々空しくとも怡然として甚だ楽しむところがあり、人はこれを窺うことができなかった。親の喪に及んでは哀毀して礼を尽くした。富弼・司馬光・呂公著ら諸賢が洛中に退居し雍を雅敬し常に相従って遊び、市園宅を作った。雍は歳時に耕稼し僅かに衣食を給し、その居を「安楽窩」と名づけ自ら「安楽先生」と号した。朝には香を焚いて燕坐し晡時には酒を三、四甌酌み微醺で止め常には酔うに至らなかった。興に至ればすぐに詩を哦って自ら詠じ、春秋の頃には時に城中に出遊した。風雨には常に出ず、出るときは小車に乗り一人がこれを挽き心のままに赴いた。士大夫の家はその車音を識り争って迎え候え、童孺廝隷も皆歓んで「わが家の先生が至った」と言い合い、その姓字を復た称することはなく、あるいは信宿を留めてから去った。事を好む者は別に雍の居のような屋を作ってその至るを候え「行窩」と名づけた。司馬光は兄のように雍に事え、二人の純徳はことに郷里が慕嚮するところで、父子昆弟は毎に相い飭めて「不善をなすな、司馬端明・邵先生に知られるを恐れよ」と言った。洛に道を志す士は公府に行かなければ雍のもとに行った。雍の徳気は粋然としてこれを望めばその賢を知ったが、表襮を事とせず防畛を設けず、群居燕笑して終日甚だ異なることをせず、人と語れば楽しんでその善を道い、その悪は隠した。学を問う者があれば答えたが未だかつて強いて人に語ったことはなかった。人は貴賤少長を問わず一に誠をもって接した。ゆえに賢者はその徳を悦び不賢者もその化に服し、一時洛中の人材は特に盛んで忠厚の風は天下に聞こえた。熙寧に新法が行われ吏は牽廹されて為し得ず、あるいは劾を投じて去る者があった。雍の門生故友で州県に居る者は皆書を送って雍を訪ねると、雍は「これは賢者が力を尽くすべきときである。新法が固く厳しければよく一分を寛くすれば民は一分の賜りを受けよう。劾を投げてどんな益があろうか」と言った。嘉祐、詔で遺逸を求めたとき留守の王拱辰が雍を応詔させ将作監主簿を授け、また逸士に挙げられ頴州団練推官に補せられたが皆固辞し、命を受けても終に病を称して官に赴かなかった。熙寧十年に卒す、年六十七。秘書省著作郎を贈られ、元祐中、諡「康節」を賜った。雍は高明英邁で古を遠く出て坦夷渾厚、圭角を見せず、清くして激せず和して流れず、人と交わって久しいほどますます尊信された。河南の程顥は初めその父に侍って雍を識り終日論議し、退いて「堯夫は内聖外王の学である」と嘆じた。雍は知慮が人に絶し事に遇えば前もって知ることができた。程頤はかつて「その心は虚明にして自らこれを知ることができる」と言った。当時の学者は雍の超詣の識のために務めて雍のなすところを高くしすぎ、雍に玩世の意ありと謂うに至り、また雍の前知によって雍が凡そ物の声気の感触するところにその動きに随ってその変を推すと謂い、世事の已に然るものを摭って皆雍の言をその先とした。雍はおそらく未だ必ずしもそうではなかった。雍が疾病になると司馬光・張載・程顥・程頤が朝夕候い、将に終わろうとするとき共に喪葬の事を議したが、外庭で衆人の言うところを雍は皆聞くことができ、子の伯温を召して「諸君は私を城に近い地に葬ろうとしているが、当然先塋に従うべきである」と言った。既に葬られると顥が銘を作り、雍の道は純一雑らず、その至るところは安んじて成ったと言うべきと墓に称した。著した書は「皇極経世」「観物内外篇」「漁樵問対」、詩は「伊川撃壌集」がある。子の伯温には別に伝がある。