宋史卷四百二十七 列傳第一百六十八 張載

関中の学祖・横渠先生

  • 張載、字は子厚、長安の人。若くして兵を談ずるのを喜び洮西の地を結客して取ろうと欲するまでになった。年二十一、書をもって范仲淹に謁見すると一見してその遠大な器を知り「儒者には自ら楽しむべき名教がある、なぜ兵事に携わるのか」と警め、中庸を読むよう勧めた。載はその書を読んでもなお足りぬと思い、さらに釈老を訪ねて累年その説を究めたが得るところがなく、六経に反ってこれを求めた。かつて虎皮に坐り易を京師で講じ、聴従する者は甚だ多かった。ある夕方、二程が至って易を論じ合い、翌日人に「この頃二程を見て深く易道を明らかにしていた、私の及ばぬところだ」と語り、諸君はこれを師とすべきと言い、坐を撤して講を輟め二程と学道の要を語り合い、渙然として自ら信じ「私の道は自ら足りる、どうして旁求する必要があろうか」と言い、これより異学を悉く棄て淳如となった。進士に挙げられ祁州司法参軍・雲巌令となり、政事は本を敦くし俗を善くすることを先とし、月の吉ごとに酒食を具え郷人の高年を県庭に召して集め、親しく勧酬して人に養老事長の義を知らせ、それに因って民の疾苦を問い子弟を訓戒する所以を告げた。熙寧初め御史中丞の呂公著がその古学があると言い、神宗はまさに百度を一新し才哲の士を得ることを思っていたので謀って召見し治道を問うと「政をなすに三代に法らないのは終には苟道である」と答え、帝は悦んで崇文院校書とした。後日、王安石に会い新政を問われると、載は「公が人と善をなせば人は善を公に帰する。玉人に教えて玉を琢かせるようなもので、命を受けない者があってしかるべきだ」と言った。明州の苗振の獄が起こると赴いて治め、末にその罪を殺し朝に還るとすぐ疾を称して南山の下に屏居し、終日危坐一室、左右に簡編を俯して読み仰いで思い、得るところがあればこれを識し、あるいは中夜に起坐して燭を取って書き、志道精思は未だかつて須臾も息まず、また須臾も忘れることがなかった。敝衣蔬食で諸生と講学し、常に知礼成性・変化気質の道をもって告げ、学は必ず聖人のように尽くさねばならないとし、「人を知って天を知らず、賢人たることを求めて聖人たることを求めないのは秦漢以来の学者の大蔽である」と考えた。ゆえにその学は礼を尊び徳を貴び、天を楽しみ命に安んじ、易を宗とし中庸を体とし孔孟を法とし、怪妄を黜け鬼神を弁じ、その家の昏喪葬祭は先王の意に率いながら今の礼で伝えた。また井田・宅里・発斂・学校の法を論定し、皆条理を成書させて挙げて事業に措けるようにしようとした。呂大防はこれを推薦して「載は始終よく聖人の遺旨を発明し、その政治を論ずるはほぼ古を復すことができる。その旧職に還して諮訪に備えるべきである」と言い、太常礼院を知る詔があったが、有司と礼を議して合わず、また疾により帰る途中、疾が甚だしくなり沐浴し衣を更めて寝み、朝にして卒した。貧しく歛める術がなく門人が共に棺を買い喪を奉じて帰った。翰林学士の許将らはその進取に恬淡だったと言い贈恤を加えるよう乞い、詔で館職の半分の賻を賜った。載は古を学び行を力め関中の士人の宗師となり、世に横渠先生と称された。著書に「正蒙」がある。また「西銘」を作り「乾を父と称し坤を母と称す、予この藐たる者、乃ち混然として中に処る。ゆえに天地の塞は吾がその体であり、天地の帥は吾がその性である。民は吾が同胞、物は吾が与なり。大君は吾が父母の宗子、その大臣は宗子の家相なり。高年を尊ぶは長を長ずる所以、孤幼を慈しむは幼を幼にする所以。聖はその徳に合し、賢はその秀なり。凡そ天下の疲癃残疾惸独鰥寡は皆吾が兄弟の顛連にして告ぐるところなき者なり。時にこれを保つは子の翼なり。楽しみて憂えざるは孝を純くする者なり。違うを徳に悖り仁を害すと言い、悪を済すを不才と言う。その形を践むは肖なる者なり。化を知れば善くその事を述べ、神を窮めれば善くその志を継ぐ。屋漏に愧じず忝めなきを存とし、心を養い性を養うを懈けざるを匪とす。旨酒を悪むは崇伯子(禹)の顧養、英才を育てるは頴封人の錫類なり。労を弛めず豫に底るのは舜のその功なり。逃ぐるところなくして烹らるるを待つのは申生のその恭なり。その受を体して全きを帰すは曾参、勇んで従いて令に順うは伯竒なり。富貴福沢はまさに吾が生を厚くし、貧賤憂戚は玉の女を成すゆえんなり。存すれば吾は事に順い、殁すれば吾は寧んず」と言った。程頤はかつて「西銘は理一にして分殊なることを明らかにし、前聖の未だ発せぬところを拡げ、孟子の性善養気の論と功を同じくする。孟子より後、いまだこれを見ない」と言った。学ぶ者は今にその書を尊ぶ。嘉定十三年、諡を明公と賜り、淳祐元年、郿伯に封じられ孔子廟庭に従祀された。弟に戩がいる。

張戩――剛直な諫官

  • 張戩、字は天祺。進士に挙げられ閿郷主簿に調任し、金堂県を知るとき、誠心をもって人を愛し老を養い窮を恤み、間には父老を召して子弟を教督させ、民に小さな善行があれば皆これを籍記した。俸銭をもって酒食に充て、月の吉ごとに老者を召して飲ませ労い、その子孫に侍らせ勧めるに孝弟をもってした。民はその徳に化され至るところ獄訟は日々少なくなった。熙寧初め監察御史裏行となり、しばしば上章して王安石が法を乱していると論じ、条例司の廃止と常平使者の追還を乞い、曽公亮・陳升之・趙抃が依違して救い正すことができないと弾劾し、韓絳が左右に徇縦してともに死党をなし、李定が邪諂をもって台諌を窃んでいると論じた。「安石が国を擅にし絳の詭随をもって補佐し、台臣もまた李定らの輩を用いて相継いで来て芽蘖が漸く盛んになっている。呂恵卿は刻薄辨給、経術を仮りて姦言を文飾しており、どうして君側で講じさせてよいものか」と、数十度上書し中書へ詣でて争ったところ、安石は扇を挙げて面を掩って笑い、戩は「戩の狂直は公の笑いを受けるべきものだが、天下で公を笑う者もまた少なくない」と言った。趙抃が傍から解こうとすると、戩は「公もまた無罪ではいられまい」と言い、抃は愧色を浮かべた。遂に病を称して罪を待ち、公安県の知事に出され、監司の竹監に転じた。家を挙げて筍を食べぬほどで、常に一卒を用いることを愛したが代わろうとする際に自らその人が筍籜を盗んだのを見つけて治め、少しも貸すことなく、罪を正した後は待つことも復た元通りにした。その徳量はこのようであった。官にて卒す、年四十七。