宋史卷四百二十七 列傳第一百六十八 程頤

伊川先生と称された理学の大成者

  • 程頤、字は正叔。年十八にして闕下に上書し天子に世俗の論を黜けさせ王道を心とすることを欲した。太学に遊び胡瑗が諸生に顔子の好むところの学は何かと問うたとき、頤は「学んで聖人に至る道である。聖人は学んで至れるか」と問われ「然り」と答え、「学の道はどのようか」と問われると「天地は精を儲え五行の秀を得たものが人であり、その本は真にして静、未発のときには五性が具わる、仁義礼智信という。形既に生じて外物がその形に触れて中を動かし、その中が動いて七情が出る、喜怒哀楽愛悪欲という。情が既に熾んになれば益々その性を蕩かし損なう。ゆえに覚る者はその情を約して中正に合わせ、その心を養いその性を養う。愚なる者はこれを制することを知らず、その情を縦にして邪僻に至り、その性を梏めて亡くす。しかし学の道は必ず先ずこれを心に明らかにして養うところを知り、然る後に力行して至るところを求める、いわゆる明よりして誠なるものである。誠にするの道は道を信ずるに篤きにあり、道を信ずること篤ければすなわちこれを行うこと果たし、これを行うこと果たせばすなわちこれを守ること固し。仁義忠信は心を離れず、造次にも必ずここにあり、顛沛にも必ずここにあり、出処語黙にも必ずここにある。久しくして失わなければ、これに居ること安く、動容周旋、礼に中って邪僻の心の生ずる自らがない。ゆえに顔子の事とするところは『礼にあらざれば視ず、礼にあらざれば聴かず、礼にあらざれば言わず、礼にあらざれば動かず』と言い、仲尼はこれを称えて『一善を得れば拳々としてこれを服膺して失わず』と言い、また『怒りを遷さず過ちを弐びせず、不善あれば未だかつて知らざることなく、知れば未だかつて再び行わず』と言う。これがその好むこと篤く学んでその道を得たことである。しかし聖人は思わずして得、勉めずして中るが、顔子は必ず思って後に得、必ず勉めて後に中り、聖人と相去ること一息、未だ至らざるところはこれを守ることであり、これを化することではない。その学を好む心をもって年を仮せば日ならずして化する。後の人は達せずに聖は本と生知であり学んで至れるものでないと言い、学の道は遂に失われ、己に求めずに外に求め博聞強記巧文麗辭を工となし、その言に道に至るものは少ない。今の学と顔子の好むところとは異なっている」と答えた。瑗はその文を得て大いに驚異し延見して学職に処し、呂希哲は最初に師礼をもって頤に事えた。
  • 治平・元豊間、大臣が屡々薦めても起用に応じなかった。哲宗初め司馬光・呂公著が共にその行義を疏して「伏して見るに河南府の処士程頤は力学好古、貧に安んじ節を守り、言えば必ず忠信、動けば礼法に遵う。年五十を踰えて仕進を求めず、真儒者の高蹈、聖世の逸民であります。擢を不次に望み士類にこれを矜式とさせるべきです」と言い、詔で西京国子監教授とされたが力辞、まもなく秘書省校書郎に召され、既に入見すると崇政殿説書に抜擢され、すぐに上疏して「習うことと智の長ずることとは共にあり、化することと心の成ることとは共にある。今、人民の善くその子弟を教える者もまた必ず名徳の士を延いてこれと処らせ薫陶して性を成させる。ましてや陛下が春秋のまだ若い頃、たとえ睿聖が天資に得ていても輔養の道は至らないわけにはいかない。おおよそ一日のうち賢士大夫に接する時が多く寺人宮女に親しむ時が少なければ気質は自然に変化する。願わくは名儒を選んで侍入させ勧講させ、講が終われば留めて分直させ訪問に備え、あるいは小失あれば事に随って規を献じさせれば、歳月が積もり久しくなれば必ず聖徳を養い成すことができるでしょう」と言った。頤は進講するたびに色は甚だ荘厳で諷諌を継いだ。帝が官中で盥するとき蟻を避けたと聞き「そのようなことがあったか」と問うと「然り、まことに傷つけることを恐れたのです」と答え、頤は「この心を推し四海に及ぼせば帝王の要道です」と言った。神宗の喪が未だ除かれない冬至に百官が表して賀すると、頤は「節序が変遷するとはいえ時に思うことはまさに切であり、賀を慰に改めるべき」と言い、既に喪を除くと有司が楽を開き宴を置くことを請うたが、頤はまた「喪を除いて吉礼を用いるのはよいが、なお事に因って楽を張るべきである。今特に宴を設けるのはこれを喜んでいるようなものだ」と言い、皆従われた。帝がかつて瘡疹により邇英に御しない日が続いたとき、頤は宰相のもとに詣で安否を問い「上が殿に御されないのに太后が独り坐すべきではありません。人主に疾があれば大臣は知らないでよいのですか」と言うと、翌日、宰相以下が初めて疾を問うことを奏請した。蘇軾はこれを悦ばず、頤の門人の賈易・朱光庭が平静さを保てず軾を攻撃すると、胡宗愈・顧臨は頤を詆り用いるべきでないとし、孔文仲がこれを極論したので、遂に西京国子監の管勾に出された。久しくして直秘閣を加えられたが再び表して辞し、董敦逸が復たその怨望の語があったとされ官を去り、紹聖中、籍を削られて涪州に竄された。李清臣が洛を尹するとその日のうちに追い遣り、叔母に別れを告げようとしても許さなかった。翌日銀百両を贐したが頤は受けなかった。徽宗即位すると峡州に徙され、まもなくその官を復したが、また崇寧に奪われ、卒す、年七十五。
  • 頤は書を読まぬところがなく、その学は誠を本とし「大学」「語」「孟」「中庸」を標指とし、六経に達し動止語黙は一に聖人を師とし、その至らぬうちは聖人に及ばぬままにしないものだった。張載はその兄弟が十四、五歳の頃から脱然として聖人を学ぼうとし、遂に孔孟不伝の学を得て諸儒の倡えとなったと称した。その言の趣旨は布帛菽粟のようで、徳を知る者はことにこれを尊崇した。かつて「今、農夫は祁寒暑雨に深耕易耨し五穀を播種して私はそれを得て食べる。百工技芸は器物を作って私はそれを得て用いる。介冑の士は堅を被り鋭を執って土宇を守り私はそれを得て安んじる。功澤が人に及ばず徒に歳月を過ごすのは天地間の一蠧であり、ただ聖人の遺書を綴緝することでいくらか補えるだろう」と言い、これにより「易」「春秋」の伝を著して世に伝えた。「易伝」の序に「易は変易なり、時に随って変易し道に従うものである。その書たるや広大にして悉く備わり、まさに性命の理に順い幽明の故に通じ事物の情を尽くして開物成務の道を示さんとするものである。聖人の憂患は後世に至ると謂うべきである。古を去ることは遠いといえど遺経は尚存する。しかし前儒は意を失いて言をもって伝え、後学は言を誦じて味を忘れる。秦より以下おおよそ伝わるものはない。私は千載の後に生まれ斯文の湮晦を悼み、後人に流に沿って源を求めさせようとして、この伝を作ったのである。易には聖人の道が四つある。言をもってする者はその辞を尚び、動をもってする者はその変を尚び、器を制する者はその象を尚び、卜筮する者はその占を尚ぶ。吉凶消長の理、進退存亡の道は辞に備わり、辞を推し卦を考えれば変を知ることができ、象と占はその中にある。君子は居れば象を観てその辞を玩び、動けば変を観てその占を玩ぶ。辞に得てその意に達しない者はいるが、辞に得ずしてその意に通じることのできる者はいない。至って微なるものは理であり、至って著しいものは象である。体用は一源であり顕微に間はなく、会通を観てその典礼を行えば辞は備わらないところがない。ゆえに善く学ぶ者は言を求めるにも必ず近くからする。近きに難ずる者は言を知る者ではない。私が伝えるところは辞であり、辞によって意を得ることは人に在る」と言う。「春秋伝」の序に「天が民を生ずるに必ず類を出づる才があり、起って君長とし治めさせ、これを争奪を息ませ、これを導いて生養を遂げさせ、これを教えて倫理を明らかにさせて後、人道が立ち天道が成り地道が平らかになった。二帝以上は聖賢が世に出るごとに時に随って作をなし風気の宜しきに順い、天に先んじて人を開くことはなかった。時に因って政を立てた。三王が迭って興るに及び三重が既に備わり子丑寅の建正、忠質文の更め、人道は備わり天運は周った。聖王が既に復た作らなくなると天下を有する者はたとえ古の跡に倣おうとしても私意妄為をなすばかりであり、事の謬は秦に至って亥を建てるを正とするに至り、道の悖りは漢に専ら智力をもって世を持し、どうして先王の道を復知するだろうか。夫子は周の末に当たり聖人が復た作らないことを知り、天に順い時に応じる治もまた復たないと悟った。ここにおいて春秋を作り百王不易の大法とした。いわゆる三王に考えて謬らず天地に建てて悖らず鬼神に質して疑いなく百世聖人を俟って惑わないというものである。先儒の伝には『游夏も一辞を賛することができない』とあるが、辞は賛を待たないものである。言はこれに与かることができない、この道はただ顔子だけが嘗てこれを聞いていた。『夏の時を行い殷の輅に乗り周の冕を服し楽は則ち韶舞す』とはこの準的である。後世は史をもって春秋を視て褒善貶悪だけと謂うが、経世の大法に至ってはこれを知らない。春秋の大義は数十あり、その義は大にして炳として日星の如く見やすいが、その微辞隠義、時措従宜のものだけは知りがたい。あるいは抑えあるいは縦にし、あるいは予えあるいは奪い、あるいは進めあるいは退け、あるいは微にしあるいは顕にして、義理の安き文質の中寛猛の宜是非の公を得るのは事を制する権衡、道を揆る模範である。おおよそ百物を観て後に化工の神を識り、衆材を聚めて後に室を作る用を知る。一事一義において聖人の心を窺おうとするのは上智でなければできない。ゆえに春秋を学ぶ者は必ず優游涵泳、黙識心通して後にその微に造ることができる。後王が春秋の義を知れば徳は禹湯に非ずとも尚三代の治に法ることができる。秦より以下その学は伝わらず、私は聖人の志が後世に明らかにならないことを悼み、ゆえに伝を作ってこれを明らかにし、後の人に文に通じてその義を求め、その意を得てその用に法らせようとした。すれば三代は復すことができよう。この伝もまた聖人の蘊奥を極めることはできないが、ほとんど学ぶ者はその門を得て入るだろう」と言う。生涯人を誨えて倦むことなく、ゆえに学ぶ者はその門から出ることが最も多く、淵源の漸すところは皆名士となった。涪の人は頤を北巌に祠り世に伊川先生と称した。嘉定十三年、諡を正公と賜り、淳祐元年、伊陽伯に封じられ孔子廟庭に従祀された。門人の劉絢・李籲・謝良佐・游酢・張繹・蘇昞は皆班々として書くべきものがあり左に附す。呂大鈞・大臨は呂大防伝に見える。