宋史卷四百二十七 列傳第一百六十八 程顥
程顥、字は伯淳。明道先生と称される。周敦頤に学び、弟の程頤と共に理学の基礎を築いた北宋の大儒。地方官・言官として仁政と直諫を行い、王安石の新法にも異論を唱えた。
内聖外王を体現した明道先生
- 程顥、字は伯淳。世々中山に居り後に開封から河南に徙る。高祖の羽は太宗朝の三司使。父の珦は仁宗が旧臣の子を録するとき黄陂尉となり、久しくして龔州を知る。時に宜獠の区希範が既に誅されると郷人が忽ちその神が降って自分を南海に立祠すべしと言ったと伝え、その神を迎えに行こうとしたが龔に至り珦がこれを詰問すると「先だって潯を過ぎたとき潯の守が妖として祠具を江中に投じたところ逆流して上ってきたので守は懼れて礼を改めた」と言うので、珦は再びこれを投じさせるとそのまま流れ去りその妄言は止んだ。磁州の知事に転じ、また漢州に転じた。あるとき開元僧舎で客を宴するに酒が回ったとき人々が仏光が見えたと歓声を上げ観る者が押し合い禁じることができなかったが、珦は安坐して動かず、しばらくして騒ぎは収まった。熙寧の新法が施行され、守令たる者は命を奉じるのに遅れることを恐れる中で、珦だけは独り議を抗し不便を指摘したため、使者の李元瑜が怒ると珦はすぐに病と称して帰り、まもなく致仕して太中大夫に累転した。元祐五年に卒す、年八十五。珦は慈恕でありながら剛断で、平居は幼賤に接するにもその意を傷つけることを恐れ、義理を犯すことがあれば容赦しなかった。左右使令の人には日々その飢飽寒燠を察しないことがなかった。前後五たび子の任子(蔭補)を得るとその都度、諸父の子孫に均しく分け与えた。孤女の嫁ぐ者があれば力を尽くして嫁がせ、俸禄の得るところは親戚の貧しい者に分け与えた。伯母が寡居すれば厚く奉養し、従兄の娘が既に嫁いで夫を失うと珦は迎えて帰りその子を養い子姪と等しく扱った。官が小さく禄が薄い時期から己を克して義を為すことを人は難しいこととした。文彦博・蘇頌ら九人がその清節を表し詔で帛二百を賜り官が葬を給した。
- 顥は進士に挙げられ鄠・上元の主簿に調任した。鄠の民に兄の宅を借りて居る者がおり、地を掘って埋め銭を得たところ兄の子が「父が蔵したものだ」と訴えたので、顥は「何年前か」と問い「四十年」と答え「借り住んで何年か」と問い「二十年」と答えると、吏に取らせた十千の銭を訴えた者に示して「今の官鋳の銭は五、六年経たぬうちに天下に遍く行き渡る。これらは皆四十年前に埋められたのになぜこんな新しい銭が混じっているのか」と言うと、その人は答えられなかった。茅山に池があり龍のような蜥蜴で五色の祥瑞のものが産すると言われ、祥符中にかつて二龍を都に取ろうとして途中で一を失い、中使は「空を飛んで逝った」と言い民俗はこれを厳かに奉じてやまなかったが、顥はこれを捕えて脯にした。晋城令となったとき、富人の張氏の父が死んだ日の朝、老いた叟が門に訪れ「私はお前の父だ」と言い、子が驚き疑って共に県に詣でると、叟は「身は医であり遠くに出て病を治しているうちに妻が子を生んだが貧しく養えず張家に与えた」と言い、その証しに懐中の一書を進めて記されている「某年月日、児を抱いて張三翁の家に与える」を出した。顥は「張はこのとき僅か四十歳だったのに、どうして翁と称する叟の子であろうか」と問うと、叟は驚いて謝した。民の税粟の多くは近い辺境に移されており、遠く運べば道は遠く、近くで糴すれば価が高くなるので、顥は富んで任せられる者を選び予め粟を貯えさせて費を大いに省いた。民が事で県に至れば必ず孝弟忠信を教え、入っては父兄に事え出ては長上に事える所以を説き、郷村の遠近を度って伍保となし力役を互いに助け患難を相恤させ姦偽を容れぬようにした。孤惸残廃の者はその親戚郷党に責を負わせ路に落ちぶれた旅人には疾病があれば養う者を置いた。郷には必ず学校を設け、暇な時に自ら父老に会いに行き語らい、児童の読む書を親しく句読を正し、教える者が不善であれば置き換えさせた。子弟の秀でた者を選んで集めて教え、郷民のために社会を作らせ善悪を旌別して勧め恥じさせた。県に三歳あって民はこれを父母のように愛した。熙寧初め呂公著の推薦により太子中允監察御史裏行となり、神宗はかねてその名を知っていて度々召見し、退くたびに「頻りに来て相まみえたい、常に卿と会いたい」と言った。ある日、従容と咨訪し正午に至ってようやく出、庭中の人は「御史は上がまだ食していないのを知らぬのか」と言うほどだった。前後の進説は多く、大要は正心窒欲・求賢育材を言い、誠意をもって主上を感悟させることに努めた。かつて帝に未萌の欲を防ぎ天下の士を軽んじないよう勧めると、帝は身を屈めて「卿のために戒めよう」と言った。
- 王安石が執政して法令を更めると議は中外皆便ならずとし、言う者はこれを甚だ攻撃した。顥が命を受けて中堂に議事に赴くと安石は言者に対し怒って厳しい顔をしていたが、顥は徐に「天下の事は一家の私議ではない、気を平らかにして聴くべきだ」と言うと安石は媿じて屈した。安石が用事してより顥は未だ一語も功利に及んだことはなかった。職に八、九月あって度々時政を論じ、最後に「智者は禹の水を行うように、その無事なるところを行う。険阻に舎ればこれを智とは言えない。古来治を興し事を立てる者に、中外の人情が交々不可と言いながら成功したものはいない。ましてや忠良を排斥し公議を沮廃し、賤をもって貴を陵ぎ邪をもって正を干す者においてをや。たとえ僥倖して小成があっても興利の臣が日々進み、尚徳の風は次第に衰え、朝廷の福ではない」と言い、遂に言職を辞することを乞うた。安石は本と顥と善かったが、これに至り不合であってもなお忠信を敬い深くは怒らず、京西刑獄提点に出すに止めた。顥は固辞し簽書鎮寧軍判官に改まった。司馬光が長安にいて上疏し退くことを求めたとき顥の公直さを称し己が及ばぬところとした。程昉が河を治めるのに澶の卒八百を取って虐使したため衆が逃げ帰り、群僚は昉を畏れて納れようとしなかったが、顥は「彼らは死から逃れ自ら帰ってきたのだ、納れなければ必ず乱れる。昉が怒れば私が自ら任じよう」と言い、親しく門を開いて彼らを慰労し、三日休ませて復た役させると衆は歓び躍って入り、事の顛末を上申したので昉を遣わずに済んだ。後に昉は州を過ぎて「澶卒の潰えは程中允が誘ったものだ、朕は上に訴えよう」と揚言したが、顥はこれを聞き「彼は私を憚っているのに何ができようか」と言い、果たして訴えなかった。
- 曹村の埽が決したとき、顥は郡守の劉渙に「曹村が決すれば京師が危うくなる。臣子の分として身をもって塞ぐのもまた当然のことである。廂卒を悉く遣り私に付されたい」と言い、渙は鎮印を顥に付し、顥は決した所へ立ち行って士卒に諭した。議者は勢い塞げず徒に人を労するだけと言ったが、顥は泳ぎの善い者に決口を渡らせ巨索を引かせて衆を渡し両岸から並び進め数日で合わせた。洛河竹木務の監を求め年を歴ても叙せられず、特に太常丞に遷った。帝はまた三経義を修めさせようとしたが執政が不可とし、扶溝県を知らせた。広済蔡河が県境に瀕し悪子が生業もなく舟財を脅し取り、歳々舟を焚くこと十数艘で威を立てていたが、顥は一人を捕えその類を引かせ宿悪を貰し地を分け処し、挽繂を業とさせ姦をなす者を察させたので、これより境内には焚剽の患いがなくなった。内侍の王中正が保甲を按閲する際その権勢に諸邑は競って侈って供張し悦ばせようとしたが、主吏が請うと顥は「わが邑は貧しくどうして他邑に倣って民から取れようか、法の禁ずるところである。ただ旧来の青帳があるのでそれを使うがよい」と言った。武学の判官に除され、李定が新法初め異論を唱えたと弾劾すると罷めて故官に帰り、また獄囚を逸したことで汝州の塩税監に責められた。哲宗が立つと宗正丞に召されたが未だ行かぬうちに卒す、年五十四。
- 顥は資性が人に優れ、充養に道があり和粋の気が面背に盎れ、門人交友がこれに従うこと数十年、その忿厲の容を見たことがなかった。事に遇えばゆったりとし、仮に倉卒であっても声色を動かさなかった。十五、六歳の頃から弟の頤と共に汝南の周敦頤の学を聞き、遂に科挙の習いを厭い慨然として道を求める志を持ち、諸家に泛濫し老釈に出入りすること幾十年、諸家から六経に帰って求めそれから得るところがあった。秦漢以来この理を極めた者はいない。人を教えるに致知から知止に至り、誠意から平天下に至り、洒掃応対から窮理尽性に至るまで循々として序があり、学ぶ者が卑近を厭って高遠に馳せ終に成すところがないことを病んだ。ゆえにその言に「道が明らかでないのは異端がこれを害するからである。昔の害は近く知りやすかったが今の害は深く弁じがたい。昔の人を惑わすは迷暗に乗じ、今の人を惑わすはその高明さによる。自ら神を窮め化を知ると謂いながら、開物成務するに足りず、言は周遍しないところがなく実は倫理に外れ、深きを窮め微を極めながら堯舜の道に入ることはできない。天下の学は浅陋固滞でなければ必ずこれに入る。これ自身道が明らかでなくなったからで、邪誕妖妄の説が争って起こり生民の耳目を塗り天下を汚濁に溺らせる。高才明智の者でさえ見聞に膠着し醉生夢死して自ら覚らない。これらは皆正路の蓁蕪、聖門の蔽塞であり、これを辟いて後に道に入ることができる」とある。顥の死に士大夫は識と不識とを問わず皆哀傷した。文彦博が衆論を採ってその墓を「明道先生」と題した。弟の頤はこれに序して「周公の没後、聖人の道は行われず、孟軻の死後、聖人の学は伝わらなくなった。道が行われなければ百世にわたり善治がなく、学が伝わらなければ千載にわたり真儒がない。善治がなければ士はなお善治の道を明らかにし人を淑くして後に伝えることができるが、真儒がなければ貿々として向かうところを知らず人欲が肆にされ天理が滅する。先生は千四百年の後に生まれ、遺経に不伝の学を得て斯文を興起することを己の任とし、異端を弁じ邪説を闢き聖人の道を煥然として世に復明させた。おそらく孟子の後、一人あるのみである。しかし学ぶ者が道の向かうところを知らねば誰がこの人の功を知ろうか、至るところを知らねば誰がこの名を情に称うと知ろうか」と言った。嘉定十三年、諡を純公と賜り、淳祐元年、河南伯に封じられ孔子廟庭に従祀された。