総論――「道学」という呼称について
- 「道学」という名は古にはなかった。三代の盛時には天子はこの道を政教とし、大臣百官有司はこれを職業とし、郷学の師弟子はこれを講習し、四方の百姓は日々この道を用いながらそれと知らなかった。ゆえに天地の間に一民一物としてこの道の恵みを被らぬものはなく、道学という名の立ちようがなかった。文王・周公が没した後、孔子は徳があっても位がなく、道を世に行き渡らせることができなかったので、退いてその徒と共に礼楽を定め憲章を明らかにし、詩を刪り春秋を修め易象を讃じ墳典を討論し、三皇五帝の道を無窮に昭明しようとした。ゆえに「夫子は堯舜よりも賢る」と言われる。孔子の没後、曽子だけがその伝を得て子思に伝え、更に孟子に及んだが、孟子の没後は伝わらなくなった。両漢以降の儒者の大道を論ずるところは、精しく察せず詳しく語らず、異端邪説が起こってこれに乗じ、千有餘載でほとんど大壊した。
- 宋の中葉、周敦頤が舂陵に出て聖賢不伝の学を得て「太極図説」「通書」を作り、陰陽五行の理が天に命じられ人の性を論じるさまを掌を指すように明らかにした。張載は「西銘」を作り理一分殊の情を極言し、これにより道の大原が天に出ることが灼然として疑いなくなった。仁宗の明道初年、程顥とその弟の程頤が生まれ、長じて周氏に受業し、既にしてその聞くところを拡大し、「大学」「中庸」の二篇を表章して「論語」「孟子」と並び行われるようにした。これにより上は帝王の伝心の奥から下は初学入徳の門まで、融会貫通して余蘊がなくなった。南宋に至り新安の朱熹が程氏の正伝を得てその学はさらに親切となり、大抵格物致知を先とし明善誠身を要とした。おおよそ詩書六芸の文と孔孟の遺言は、秦の焚書に錯乱し漢儒によって支離し魏晋六朝で幽沈していたが、これに至って皆煥然として大いに明らかになり秩然としてそれぞれの所を得た。これが宋儒の学が諸子を超えて孟子に上接する所以であり、世代の汚隆・気化の栄悴に大いに関わりがある。道学は宋に盛んであったが宋はこれを用いることを究めず、厲禁されることさえあった。後の時君世主が天徳王道の治を復そうとするなら、必ずここに法を求めるべきである。邵雍は高明英悟で程氏は実にこれを推重したが、旧史は隠逸に列していて当を得ていない。今、張載の後に張栻を置くのは、その学もまた程氏に出て朱熹と相見え博約して大いに進んだからである。その他の程朱門人はその源委を考え各々類をもって従え、道学伝を作る。
理気を説いた濂溪先生
- 周敦頤、字は茂叔、道州営道の人。元の名は敦実、英宗の旧諱を避けて改めた。舅の龍図閣学士鄭向の任により分寧主簿となり、久しく決しない獄があったが敦頤は至って一訊で立ちどころに弁じ、邑人は「老吏も及ばぬ」と驚いた。部使者に薦められ南安軍司理参軍に調任、法により死に当たらぬ囚がいたが転運使の王逵が深く治めようとした。逵は酷悍な吏で誰も敢えて争わなかったが、敦頤だけはこれと弁じ聴かれないと手版を委ねて官を棄てて去ろうとし「かくの如くでなお仕えられようか、人を殺して人に媚びるようなことは私にはできぬ」と言い、逵は悟って囚は免れた。郴の桂陽令に転じ治績はことに著しかった。郡守の李初平がこれを賢とし「私は読書を学びたいがどうすればよいか」と問うと、敦頤は「公は老いてもう及びません。しばらく私が申し上げましょう」と言い、二年のうちに果たして得るものがあった。南昌の知事に転じると南昌人は「これは分寧の獄を弁じた者だ、我らの訴えを聞いてくれる」と皆言い、富家大姓や狡猾な吏・悪少は戦々恐々とし、令に罪を得ることを憂うるだけでなく善政を汚すことを恥じた。合州判官を歴任したとき事は敦頤の手を経なければ吏は敢えて決さず、下しても民は従わなかった。部使者の趙抃は讒言に惑わされ甚だ威圧的に臨んだが、敦頤は超然として処し、虔州の通判となると抃は虔を守っていて敦頤の振る舞いをよく見て大いに悟り、その手を執って「私はもう少しで君を見誤るところだった。今にしてようやく周茂叔を知った」と言った。
- 熙寧初め郴州を知り、抃および呂公著の推薦により広東転運判官・刑獄提点となり、冤を洗い物を潤すことを己の任とし、部を行くに労苦を厭わず瘴癘険遠の地でもゆっくり見て回った。疾により南康軍を知ることを求め廬山蓮花峰の下に家を構え、前に溪があり湓江に合するのを取って営道の居所と同じ「濂溪」と名づけた。抃が再び蜀を鎮めるにあたり用いようとしたが至らぬうちに卒した、年五十七。黄庭堅はその人品甚だ高く胸懐灑落として光風霽月のようであり、名を取ることに廉く志を求めることに鋭く、福を徼めることに薄く民を得ることに厚く、身を奉じることに菲く孤独な者に及ぶことに手厚く、世に希われることに陋く千古を尚友したと称えた。博学力行し「太極図」を著して天理の根源を明らかにし万物の終始を究めた。
- その説に曰く「無極にして太極、太極動いて陽を生じ、動極まって静、静にして陰を生じ、静極まって復た動く。一動一静互いにその根と為り、陰を分かち陽を分かちて両儀立つ。陽変じ陰合して水火木金土の五気を生じ、順布して四時行われる。五行は一陰陽であり、陰陽は一太極であり、太極は本と無極である。五行の生ずるや各々その性を一にす。無極の真、二五の精、妙合して凝り、乾道は男を成し坤道は女を成す。二気交感して万物を化生し、万物は生々して変化窮まりない。ただ人はその秀を得て最も霊なり。形既に生じて神は知を発す。五性感動して善悪分かれ万事出づ。聖人はこれを中正仁義をもって定め静を主として人極を立てる。ゆえに聖人は天地とその徳を合わせ日月とその明を合わせ四時とその序を合わせ鬼神とその吉凶を合わせる。君子はこれを修めて吉、小人はこれに悖って凶。ゆえに『天の道を立てるを陰と陽と言い、地の道を立てるを柔と剛と言い、人の道を立てるを仁と義と言う』とし、また『始めを原ね終わりに反る、ゆえに死生の説を知る』と言う。大いなるかな易よ、それが至りである」と。また「通書」四十篇を著して太極の蘊を発明した。序する者はその言は約にして道は大、文は質にして義は精、孔孟の本源を得て学者に大いに功があるとした。
- 南安の掾のとき程珦が軍事を通判し、その気貌が非常の人であるのを見て語り合いその為学が道を知る者と分かって友とし、二子の程顥・程頤を遣わして受業させた。敦頤は常に「孔顔の楽しむところ、何を楽しんだのか」を尋ねさせ、二程の学の源流はここに発する。それゆえ程顥は「再び周茂叔を見て以来、風に吟じ月を弄んで帰り、曾点と共にありたいという志を抱いた」と言った。侯師聖が程頤に学んで悟れず敦頤を訪ねると、敦頤は「私はもう老いた、説くには詳しくせねばならぬ」と言い榻を並べて夜通し語らい三日を越えて還ると、程頤はこれに驚異して「周茂叔から来たのではないか」と言った。その人を開発するのに巧みなことはこのようであった。嘉定十三年、諡を元公と賜り、淳祐元年、汝南伯に封じられ孔子廟庭に従祀された。二子は寿・燾、燾は官が宝文閣待制に至った。