西征の糧道を守り抜いた辺吏
- 葉康直、字は景温、建州の人。進士に及第し光化県を知る。県には竹が多く民は皆屋を編んでいたが、康直は瓦を陶して用いさせ火患を鎮めた。政はすべて民を利することに努めた。時に豊稷は穀城令として治績が顕れ、人は「葉光化、豊穀城、清きこと水の如く平らかなること衡の如し」と歌った。新法が布行されると司農属となり、水・興・秦・鳳の転運判官を経て陝西から刑獄提点・転運副使に進んだ。五路の兵が西征したとき康直は涇原の糧道を領し、承受内侍の梁同が餉を悪しとして妄奏したため神宗は怒って康直を械にかけ誅そうとしたが、王安礼が力を尽くして救い故官に帰ることができた。元祐初め直龍図閣を加え秦州を知ったが、中書舎人の曽肇・蘇轍が康直を李憲に諂事したと弾劾し免官となったものの、実を究めると無状であったため河中府の知事に改まり、また秦州となった。夏人が甘谷を侵すと康直は諸将に伏を設けさせて待ち構え、その二酋を殲滅した。これより敢えて境を犯さなくなった。宝文閣待制に進み陝西都運使となり、疾により亳州の知事を請い、積潦を通し濬らせ民は田数十万畝を得た。兵部侍郎に召されたが卒す、年六十四。