淮南の水利と辺備に尽力した吏
- 吳遵路、字は安道。父の淑は文苑伝に見える。進士に及第し累官して殿中丞に至り、秘閣校理となった。章献太后が政を制するあいだ政事の得失を誰も敢えて言わなかったが、遵路は十餘事を条奏し語は皆切直で太后の意に忤い、常州の知事に出された。かつて呉中の米を予め市して歳の凶に備えたことがあり、まもなく果たして大いに食に乏しくなったが民はこれに頼って救われ、他州から流れてきた者もまた十のうち八、九が全うされた。尚書司封員外郎に累遷し開封府推官を権し、三司塩鉄判官に改め直史館を加え淮南転運副使となり、江淮発運使が罷められたので発運司事を兼ねた。かつて真・楚・秦州・高郵軍に斗門十九を置いて水利を蓄泄し、また属郡の常平倉の儲蓄を二百万まで広げ凶歳に備えた。すべての規画は後に皆便宜となった。工部郎中に遷り、蘄州の王蒙正の故入部吏死罪を按じ損じた罪により洪州の知事に降され、広州に転じたが辞して赴任しなかった。時に発運司が既に復置され使に任じられ、未だ至らぬうちに召されて起居注を修めた。元昊が反すると民兵の復置を建請し天章閣待制河東路計置糧草として、詔により河東の郷民から兵たりうる者を選び揃える任を受け、諸路はこれを法とした。兵部郎中に進み開封府を権知し、吏を馭するに厳粛で属県に追逮がなかった。時に宋庠・鄭戩・葉清臣は皆宰相呂夷簡に悦ばれておらず、遵路は三人と雅に厚く親しんでいたため夷簡に忌まれ、宣州の知事に出された。禦戎要略辺防雑事二十篇を上奏し、陝西都転運使に転じ龍図閣直学士に遷って永興軍を知った。病を得てもなお手ずから奏を作ることをやめなかったが、卒すると仁宗はこれを聞いて悼み、詔で官を遣わして喪を護送させ京師に還した。遵路は幼くして聡敏、長じて博学し大体を知り、母の喪には廬墓し蔬食して喪に服した。性は夷雅慎重で寡言笑、筆札を善くし、政を為すこと簡易で声威を張らなかった。立朝しては敢えて言い阿倚するところがなく、平居は廉倹で他に好むところがなかった。没した後、室に長物なく、友の范仲淹が俸を分けてその家を賙わせた。子の瑛は尚書比部員外郎となったが老いを待たずして帰した。