宋史卷四百二十五 列傳第一百八十四 楊文仲

楊文仲、字は時発。眉州彭山の人。母の薫陶を受け『春秋』を修め、言路の閉塞に抗して直言を続けた官僚。元軍が渡江し朝士が逃げる中でも侍従として朝廷に留まった。

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出自と経歴

  • 楊文仲、字は時発。眉州彭山の人。七歳で孤児となり、母胡氏は二十八歳で節を守り子を教育、文仲は元服の後『春秋』を貢挙とし、母は「わが家は三世でこの経で成果を上げた」と喜んだ。淳祐七年(1247年)胄試首位で太学に入り、九年公試首位で内舎に昇る。言路が塞がれていた時期、季冬の雷震に応じ同舎を率いて叩閽極言し「天は本来怒らないが人が激して怒らせ、雷は本来言わないが人が激して言わせる」と論じ広く伝誦された。上舎西廊学録として丞相謝方叔に何が最も急務かと問われ「国本の未建がこれより大きいものはない、上意が未だ明らかでないなら死を賭して請うべきだ」と答えた。
  • 寶祐元年(1253年)進士、母憂の後、従叔父楊棟が婺州を守る際に罷免され餘杭に寓居し伊洛の学を問うた。復州学教授、転運使印応飛に幕僚として招かれ、婺の婦人の冤獄を解決、荆湖宣撫使趙葵の分司幕、姚希得・江萬里が学の有用さを推薦、四川宣撫司准備差遣、沿海制置司幹辦公事、戸部架閣、太学正・博士、国子博士として楊棟が祭酒の時学問がさらに精緻になった。
  • 通判台州として、旧例の華侈な取燈行事を「灯一つで足りる」と簡素化させ、通判揚州として牙契の額が累政で四万から十六万緡に増額されたのを羨余を求める告訐と見て拒み、十八界一のみに抑えた。制置使李庭芝の招きに応じ沙田開発を「与民の恵は限りがあるが不擾の恵は限りない」と反対し中止させた。

中央での言論

  • 宗学博士、郊祀圜壇監察御史として、近輔兵変や水患に触れ、天命が久しく続く一方国脈が老いた喜懼の交わる時を憂え、麦秋の憂いに加え天目の洪水・蘇湖の弄兵を指摘し、大夫が不足し貪瀆が絶えない現状を訴えた。太常丞、崇政殿説書として、講筵で春秋を進読し「桓公は王覇升降の会に処しながら向上の事業を為さず、覇道を開いたに過ぎない」と論じ、尊王抑覇の大義を説いた。帝は「先帝の聖訓に絲竹紅紫の惑いを戒める言葉があり、聖賢心学の要を得て国子民に君臨すべきとある」と応じた。
  • 帝が疾により連日視朝しなくなった際「声色の事は看破すれば元来好むに値しない」と諫め、宗陽宮の建設で民居を移す施策にも「祖宗の位を継いだ陛下が黄老の居のために民を騒がせるべきではない」と諫めた。丞相賈似道が「楊文仲は多言だ」と怒ると、卿監以上に人材を薦める詔に応じ陳存・呉折・鍾季玉ら十八人、うち金華の王栢・天台の車若水を名士として推挙した。教諭彭成天の捄いで似道に迕らい、崇禧観主管に出され、知衡州では運餉に法を用いて民を煩わせず、思済倉を建てた。
  • 祕書少監として崇政殿説書を兼ね、太常少卿兼国子司業、起居舎人を経て瀛国公即位後、権工部侍郎兼権侍右郎官兼給事中に至り、明堂祭祀を上公に摂行させる議に対し「幼冲の時とはいえ喪次に比べればすでに拝跪執礼に勝る、親祭すべき」と論じた。丞相王爚・陳宜中が不協和音を起こすと「祖宗の頼み、億兆の寄命は二相にある、争いを続ければ悔いても及ばない」と疏した。国子祭酒を兼ね何基・王栢の諡を請うた後、元軍が渡江し朝士が多く逃げる中、侍従で残った二人のうち文仲だけが留まり位階を加えられた。疾が重くなり集英殿修撰知漳州、知泉州を経て嶺南で家族と待次するうちに卒し、宋も滅んだ。著書に『謝見山文集』。