宋史卷四百二十五 列傳第一百八十四 趙景緯

趙景緯、字は徳父。臨安府於潜の人。朱熹門人の葉味道・度正に学んだ醇儒で、度重なる召命をたびたび辞退しつつ知台州として教化と善政に努めた。

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出自と経歴

  • 趙景緯、字は徳父。臨安府於潜の人。少くして学に勤め、弱冠で周惇頤・程顥兄弟の書を読み朱熹の門に及ばなかったことを悔いた。熹の門人葉味道が「度正は我が党で第一人」と評したことから度正のもとに赴き、放心を求めることを本とする教えを受け、味道と正の間を往来して研鑽した。太学に入り淳祐元年(1241年)進士、江陰軍教授として諸生を規律で導いた。母の喪に禄が及ばず服闕後も調にならず読易菴を懸霤山に作った。

固辞と台州治績

  • 江東提点刑獄呉勢卿の招きに応じず、史館検閲・待次教授・岳祠・致仕をいずれも辞退・拒否され続けたが、特に改合入官・主管崇道観・祕書郎・著作郎などの命が三度に及ぶ辞退にもかかわらず下り続けた。台州守王華甫が上蔡書院の堂長に招くと以疾辞し、代わりに知台州の命が下り、化民成俗を先務として陳述古の諭俗文書を用い、自らの説を加えて民に告諭し、朝夕歌わせた。孝経庶人章を四言に訳して詠賛させ感涙する者もあった。
  • 遺逸の車若水・林正心を推挙し、孝行を旌して訓孝文を作った。重刑を平にし譁訐を懲らし豪横を治め、黄巖県に社倉六十六を建て河道九十里を浚渫、隄路三十里を築き、下戸のため秋苗を代納、五邑の坊河渡銭を蠲免した。
  • 帰田を求め続けるが趣命は厳しさを増し、赤城・桐栢での採薬著書を望むも許されず、崇政殿説書として召され、緝熙殿で『易』を進講し「聖人が体元の妙を惟幾に置く」ことを説き、惕厲祗懼が天心の存するところであり、聖人は憂いに先んじて処するがゆえに憂いなく、危うきに先んじて処するがゆえに危うきがないと論じた。監司守令の選抜について、観望や阿私で人材が誤って評価される弊を指摘した。
  • 彗星が出現すると応詔封事し、天心は百姓の心であり、私蔵を専らにし公議に背けば人は悦ばず、閭閻の困窮を顧みず宴私が贏るなら人は悦ばず、貪を澄まさず私を絶とうとしても人は悦ばないと論じ、内帑の節約・嬪嬙の削減・貂寺の排除・忠鯁の士の台諫登用・慈恵忠信の士の守宰登用を求めた。国史院編修官実録院検討官を辞退し続け、転対で義利の限を弁じ天自処の理を説き、太府少卿として帰田を求めるも許されず、直敷文閣知嘉興府として咸淳元年(1265年)赴任、根本の保護と風俗の是正を先務とした。
  • 宗正少卿として侍講を兼ね、禮記を進講して敬恕の義を説き、濫恩の詞頭を封還した。嗜欲を戒め居処・動作・祭祀・事親において常に思うべきことを説き、御食のたびに天下の饑者を、着衣のたびに天下の寒者を思うべしと述べ、雷の非時の発生を内批の乱発・宮閫の不厳・貪の詔と実際の弛緩の齟齬から生じる不安と結びつけて論じた。権禮部侍郎兼修玉牒、兼侍読を経て聖学四箴(惜日力・精体認・屏嗜好・謹行事)を進呈し帰田を五度乞い、集英殿修撰知建寧府、中書舎人、顯文閣待制を歴任するがいずれも辞退が続き、最後は玉隆万寿宮提挙のまま疾に伏し医薬を拒み「私を清心のまま天命に順わせよ」と拱手三揖して卒した。四官・中奉大夫を追贈され諡は文安。孝友沖澹で親の死後、仕進の志を持たなかったため立朝の日は短かったという。