宋史卷四百二十五 列傳第一百八十四 洪芹

経歴

  • 洪芹、尚書右僕射洪适の曾孫。大父の澤により入官し進士に及第、南平司法から欽州教授に転じ、部使者に才を愛されて相次いで推薦を受け、審察の召しに応じた。内外艱を経て省架閣を主管、太学博士として絜矩の道を発明する対策を上奏、国子博士、通判南劍、太常博士、将作少監を歴任。詞臣の言が上意に合わず天下の士を求める中、丞相程元鳳が「今の地望に芹に勝る者はいない」として推薦、兼翰林権直祕書少監に進んだ。
  • 開慶元年(1259年)直学士院に昇り、権禮部侍郎中書舎人を兼ねる頃、兵興により帝が任用の誤りを悟った際の詔書は芹の起草によるものであった。丁大全が罷相し出鎮した後、芹は禮部侍郎として大全の罪を弾劾する繳奏を行い「鬼蜮の資、穿窬の行、暴戻淫黷、忠良を陥害し言路を遏塞し朝綱を濁乱した」として遠竄を求めた。沈炎が帝の怒りに乗じて丞相呉潜を攻撃した際、芹は独り繳奏し「国本が危うい時に潜は星馳して赴闕し紛乱を治め功が多かったのに、弁髦のように扱われるのか」と詩経の言葉を引いて論じ、天下はその慷慨敢言を義とした。
  • 禮部侍郎に転じたが帝の登用の意にもかかわらず論議で退けられ、永嘉に寓居して自適した。咸淳初、知寧国府に起用され卒した。文集がある。