経歴と楮幣論
- 王邁、字は貫之。興化軍仙遊の人。嘉定十年(1217年)進士。潭州観察推官、内艱の後、浙西安撫司幹官として廷試詳定官王元春の不正を摘発し、元春の怒りで諫官李知孝に殿廬での声高さを誣告され免官となった。南外睦宗院教授、知福州の真徳秀を輔佐し、丞相鄭清之に「学官の掌故ごときで貫之を煩わせない」と評された。
- 学士院試策で楮幣を論じ、乾道・淳熙初の発行額二千万から開禧の兵興で一億四千万、紹定の山東事変で二億九千万にまで増えたことを詳しく検討し「軍実を核し辺釁を窒ぐことこそ楮幣を救う第一義」と説いた。修内司の営繕・宣索・緇黄への濫予を批判し、括田・権塩の議を退けた。
- 帝が喬行簡を再相させ史嵩之の復用の噂が立つと「天下の相は天下と共に謀るべきもの、旧相の姦憸刻薄を復用すれば君子は網に閉ざされる」と封事を上奏、呉知古・陳洵益の撓政も弾劾。魏了翁が経筵で邁を惜しんで語り、通判漳州に転じた際、雷雨に応じ「麴蘖が疾を招き妖冶が性を伐り、政務を怠り道路の憂疑を招いた」ことこそ天の怒りの原因と述べ、崔与之の登用を提案した。
- 台官李大同から徳秀・了翁・洪咨夔と結んで虚誉を集めたと弾劾され一秩を削られ、蒋峴の弾劾でさらに二秩削られた。通州・贛州・福州・建康府・信州の知事に補されるが赴任せず、淳祐改元、通判吉州となる。右正言江万里が「邁の才は惜しむべきだ、召さねば老いに及ばぬ嘆きとなる」と疏したが妨げる者があり実現せず、知邵武軍として旱害に応詔し撤龍翔宮・立濟王後を第一に献じた。鄭清之が再相すると左司郎官に召されるが辞退、侍右郎官に転じ諫官焦炳炎の弾劾で罷免され祠のうちに卒し司農少卿を贈られた。世務に練達し、宗勉を「賢相」と評しつつ徐清叟には人望を評価するなど公平な人物評で知られた。